tenjuu99(天重誠二)
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post
ゲンロン友の会、一見サブスクに見えるんだけど、あれは友の会の資金をもとでにして本をつくる、みたいなの想定でたぶんクラファンに近い。本を生産したらまたモノとしても売ることができる。自分にはこういう形がいちばん筋がとおっているように見える。

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読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など いろいろ雑につぶやいています SPACE NOBI というアートスペースやっています
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@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post
ゲンロン友の会、一見サブスクに見えるんだけど、あれは友の会の資金をもとでにして本をつくる、みたいなの想定でたぶんクラファンに近い。本を生産したらまたモノとしても売ることができる。自分にはこういう形がいちばん筋がとおっているように見える。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post
いま、いろいろ考えるのを放棄した結果サブスクってことになってるんだとおもうけど、そうするとファン向けっぽい形にどうしてもなってくる。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net
「書いたテキストを売る」んじゃなくて、事前にお金をあつめてそれを元手にテキストを生産するのいいとおもうんだよな。ただ、モノができなかったときにどうするか問題があるんだけど。
@satomuch@fedibird.com
クラウドファンディングで集めてお金は預かり金になって、ゴールに達したら仕訳が報酬になって対象者に支払う感じ?(振込手数料は引かれる)CAMPFIREは規模をデカくして手数料ビジネスで食ってるわけだから最低限の維持費で良いなら手数料もそんな要らないか(手数料というよりマネジメント料に近いかも)。
これを個人事業でとりあえずやるのか、組合員出資でやるのか、ってところか。協同組合にするならちゃんとやらんと出資法違反とかに引っかかりそう。
@hhvm@fedibird.com
codocがイマイチ流行ってない感じするけどなんでだ。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post
自販機でジュース買うみたいなのがいいんだけど、そういうことがウェブはやりづらい。課金をしたら一時的なダウンロードリンクが払いだされるとかがいいのかもしれない。それはそれで参照が永続的なのか不明な感じがあるけど。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net
物販ならまだ我慢できなくもないけど、ウェブのテキストのためにとなるとアカウント作成までして読みたいというのは困難すぎる。とはいえ、記事単発売りはもう note からもなくなっているとおもうけど。
@hhvm@fedibird.com
baseかstoresがこれだな確か。ネットショップごとにアカウント作らないといけない。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net
個人とか小規模なwebのテキストメディアで課金が難しいのは、課金済みかどうかをセッションに持たせておく必要があるから、その前に認証情報が必要となってしまうところだとおもう。ユーザー数を抱えているプラットフォームは「買う側の認証」問題を解決しているから、課金テキストがやりやすくなる。個人ブログを買って読むために、そのブログ用のアカウントなんか作りたくない。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to 北市真's post
@KitaitiMakoto いえ、とくに答えにくいことはないです笑 深津さんはもともと寡占化・プラットフォーム化を目指すようなことをずっと言っているので、そういうところにのっかるのが好きではないという感じですね。利便性という意味では、ユーザー数をそもそも抱えているから、企業側が課金についての選択肢をとりやすいのはありますね。これが寡占化の源泉になると目算しているんだとおもいますが。こういう理屈に抵抗する手段がないかなぁとかは考えていますが、テキストへの課金はいがいと難しい気がしますね。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to 北市真's post
@KitaitiMakoto いや、たいした理由はなくて、ひとつには深津さんが好きじゃないのと、note という企業をあまり信用していないのと、利用者側の安きに流れてしまっている感じとか、そういうところですね。単なるオルタナティブ志向だとおもいます(オルタナティブな選択肢が多いほうが良いとは思っています)。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post
メディアが舞台を作る能力を無くしているというのは、どの業界でもおおきな傾向としてある気がする。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post
50年代〜00年代くらいまでの美術メディアの傾向と、ここ10年くらい、とくにここ5年だともう決定的に変わっている。〜70年くらいまで、そもそもアーティストはメディアを挑発して批評家に書かせるようなことを意識しているから、雑誌そのものが美術が展開する舞台であったりする。で、そのあとだと、中原佑介とか椹木野衣とかが、自分でキュレーションしてデカい展示をするとかがあり、もうこうなるとライターというレベルではないんだけど、まあでも彼らは職業的なライターであり(ぜんぜんアカデミシャンですらない)、舞台を作ることに長けているという感じはある。いまはこういう動きは見当らないんだけど(カオスラウンジとかが最後くらいじゃないか)、それは才能ある書き手がいないからなのか、それとも構造的なものなのか。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net
「ライター 稼げない」で検索したら工夫とチャレンジと持続力があれば稼げるというのがあって、まあそりゃそうだろうけどそういうこと?ってなった。
@satomuch@fedibird.com
これ凄いいいと思った!
資本主義のトラックからも逃れられる書き手と読み手の相互扶助の仕組み。
https://x.com/x_Atara_303/status/1962422222603055149?t=KncBusyOqu0cmBmM_n5vHw&s=19
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net
note じゃないやつでやってほしかったな...
@seki_takanao@fedibird.com
「蜘蛛と箒通信」というnoteのメンバーシップに参加しています! 初回は全記事無料にて公開中です。ぜひご一読いただければ。
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@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post
70年代に美術評論の活動をはじめた北澤憲昭が、こうした状況にたいして嫌気がさしており、その状況と相似形だった明治初期の制度化する美術への関心のはじまりで、そういう調査が結果的には美術史という制度に組み込まれ、まさに官僚的な動きをしていた高階秀爾に褒められてうれしい、みたいなのは皮肉ではある。批評の退潮というか、官僚化みたいな流れがある。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post
いわゆる「非政治的フォーマリズム」というのもこの流れで、いってしまえば美術の官僚化とでも言える。作家が自主的スペースで発表するのではなく美術館で発表する、みたいなこと考えると、まあ迂闊・過激なことはできない。丁寧にキャリアを積んでいく必要もでてくる。70年代後半から90年代の状況がこうであってみれば、批評空間なんかはむしろこの状況への反動として現れたとも言える。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net
日本の戦後美術、50年代〜70年ころまでは明確に流れがあって、めちゃくちゃ雑に言えばアクション・ペインティングの誤読(具体)にはじまって、制度批判(読売アンパン、反芸術)〜オフミュージアム的な流れ(反芸術〜もの派・美共闘)で、ここらへんまではまじで明確な流れとして理解できる。それ以降流れを見失うのは、美術館建設ラッシュがはじまって文脈関係なくデカ絵画・彫刻が登場してきたからで、新左翼運動の退潮と歩を合わせていると言っていい。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post
椹木野衣の周辺だけが悪い場所なのではないか。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post
読みなおそうとおもって開いているけど、悪しきポストモダンすぎて読むのがつらい。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post
こういう叙述でだいたいタネが尽きているというか、わりとありがちな「日本は近代ですらない」を前提に、その欠損を畸形として描くのが椹木の手口。
"もしかすると「日本の前衛」とは、乗り越えるべき「近代」を未完に放置したまま、「近代」を乗り越えるための思いが、いわば「超近代」的な身振りとして自立してしまった、「奇妙な前衛」なのではないのか。"
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net
『日本・現代・美術』、むかしはたいしたこと言っているふうに聞こえていたけど、まじでたいしたこと言ってないというか、まじめな探求が一切ないな。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post
美術について、同時代的なパラダイムのようなものがあると語りうるようになったのって、戦後なんじゃないかとおもう。科学哲学でパラダイム理論がでてくるのも戦後だけど。このとき、「近代」というものはひとつのまとまりとして見えているんだけど、各所を詳細化していくと、「近代」の経験が一つであるはずがなく、たとえば植民地における「近代」の経験は「近代化」と呼びうるようなものであるはずがない。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post
日本の近代化というものを追いかけていけば、それがフランスの近代とはよほど異なった形をしていて、単一の「近代」というものを取り出すのは困難だとおもうのだけど、単一の「近代」があると考える論者にとって、日本の近代とはヨーロッパ近代の影でしかなく、いつも「未然の近代」とでもいうものになるんだとおもう。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post
宮川の「アンフォルメル以降」を読んで、彼にとって「近代」というものはバリエーションがない単一のものだ。だからその出発点がボードレールであることは動かないし、宮川が日本美術史にあまり関心をもたなかったのもそのへんが理由だとおもう。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net
宮川淳もこういう弁証法的な記述だなと思うけど、こういう弁証法っぽいものが通用するのって、それが調和のイメージをもとうと分裂のイメージをもとうと、前提となるのはある種の単一性で、それは国家とか日本とか美術とかなんでもいいんだけど、そういうものの単一性がある。それが通用する時代も、いがいと限定されているんじゃないかという気がしなくもない。
@seki_takanao@fedibird.com
「内在批判にとって成功したといえるのは、客観的諸矛盾を欺瞞的に調和させ融和する形象というよりも、むしろ諸矛盾を純粋に、頑として、自己の最内奥の構造に刻みこむことによって、調和の理念を否定的に表現するような形象である。」
これはアドルノが「文化批判と社会」のなかで自身の方法論を語ったさいの言葉だが、戦中世代の批評家のひとつの特徴として、矛盾の解決ではなく、矛盾を矛盾としてそのまま書き出そうとすることろがある。
戦中世代は、敗戦によって言語体系の激変に直面したわけで、ゆえに言語の自明性それ自体を批評の対象にせざるをえなかった。それを批評の方法論として実践したのが、アドルノであり、日本の場合であれば、織田達郎。言説を批評の対象にしたミシェル・フーコーもそう。フーコーは、フランスがナチスドイツに敗れ占領された経験が研究の出発点になったと述べている。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net
沖縄の近代・彫刻・風景──美術館コレクション展「沖縄の彫刻たち」(沖縄県立博物館・美術館)レビュー(評:勝俣涼) https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/okimu-review-202508