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tenjuu99(天重誠二)

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post

@seki_takanao パノフスキーの遠近法の読みの方針は、結局「象徴形式」という言葉に尽きてはいて、その意味で遠近法をイデオロギーとしては読んではない。 その違いは、象徴形式とは時代の特性として見做されるようなある芸術形式がある、というようなもので、論考最終行にあるとおり、遠近法は古代神権政治(テオクラティー)が倒れたときと近代の人間の政治(アントロポクラティー)が確立したときに登場した。政治システムと同期的にあらわれる形式として遠近法を読んでいるのだけど、イデオロギーというのは、体制にたいして事後的にでてくるものというより、階級的な利害を代弁するという機能をともなうものだとおもう。象徴形式は体制にたいして事後的な(あるいはせいぜい同期的な)関係であって、積極的な機能をもたないとおもう。

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関貴尚

@seki_takanao@fedibird.com · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post

天重さんならそう言うだろうけど、パノフスキーが『象徴形式としての遠近法』で言おうとしたのは、簡単にいえば、人間の知覚メカニズムと遠近法的空間は必ずしも一致したものではなく、遠近法はあくまでも自然さを装った「象徴形式」にすぎないということでしょ? つまり、それが「象徴形式」であることを忘れさせてしまうほど、自然化=透明化したシステムが遠近法である、ということを暴き出したのが、『象徴形式としての遠近法』だと思う。そうすると、イデオロギーの機能とはさまざまな現実にある矛盾を「自然化」(ルカーチの用語では「物象化」)することにあるというマルクス主義的なイデオロギー論と近くなってくる。もちろん、セザンヌからキュビスムにいたる遠近法の相対化の流れが歴史的前提条件になっていることはたしかだけど。