
tenjuu99(天重誠二)
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読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など いろいろ雑につぶやいています SPACE NOBI というアートスペースやっています
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ほんとうに言っててほしかったけど、コラだった
スミッソンのテキストがオンラインでいくつか読めるの知らなかったけど、この文章めちゃくちゃいいな。 A Cinematic Atopia https://holtsmithsonfoundation.org/cinematic-atopia
holtsmithsonfoundation.org
A Cinematic Atopia | Holt/Smithson Foundation
ご飯11時とかに食べてたりする
これはAIに相談しながら整理した内容だけど、こういうの聞いていると、ちなみに October という誌面のレイアウトはモノクロ写真で、おそらくそこには Artforum がカラフルな誌面でまさに「テキスト+写真」という異種混淆的な誌面構成を志向しているのに対抗した禁欲で、これはこれで「テキストのよる純粋性志向」があるのでは?といってきたのはけっこうおもしろいなとおもった。バタイユの「ドキュマン」が好きなくせに、文筆家としては純粋志向になってしまうという感じ。
ベンヤミンもバルトもマクルーハンも、写真を異種混淆的なメディアだと考えたとおもうけど、それは写真の本質としてそうという話ではなくて雑誌や新聞というメディアにおいて配置されるからで、こういう俗っぽいメディア分析をずっとやっていて、芸術上のメディウム分析ばかりやっているわけではない。クラウスはこういうのをほとんど完全に無視してベンヤミンやバルトをグリーンバーグの体系に押しこめてしまう。
マクルーハンへの否認の身振りを読みたくなっちゃうのは、クラウスのマノヴィッチへの敵意があって、この記事に書かれているような黙殺はマクルーハン流のメディア論がここで返ってきちゃったからだ、と言いたくなる。 https://www.repre.org/repre/vol19/greeting/
repre.org
表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉:PRE・face
ロザリンド・クラウスの観念というか理論について整理していて、クラウスは写真をキャプションを必要するとかそういう意味で「異種混淆的だ」と言い(画像とテキストみたいなこと。『メディウムの再発明』参照)、それを指摘したのもベンヤミンだというんだけど、この「異種混淆性」が起きるのは本とか雑誌とか新聞とか、そういう場であって(このリストに展覧会を追加してもいい)、写真の本性でもなんでもない。だけど、クラウスは「写真がもつ本来的に異種混交的なこの構造は」とか言ってしまう。つまり写真の本質主義的に理解してしまう(グリーンバーグのことは本質主義だからって理由で批判したくせに)。 メディウムの異種混淆性が、写真というメディアの本質に帰属させられてしまうのは、彼女の理論のなかに「場」とか「環境」といった概念がないからで、メディウム間の差異という体系しかない。かつ、なぜ「環境」という概念が抑圧されているかと言えば、おそらくマクルーハンに対する否認ではないかと思われる。マクルーハンこそメディアの異種混淆性を強調した人だったが、メディアとは人は気付くことがない環境であると考えた。新聞とかテレビとかはこういう異種混淆性が発生する場・環境なので、メディウムスペシフィシティという概念はここでは相対化されてしまう。クラウスの観念のなかには、メディウムの異種混淆性が発生するような「場」がないもんだから、そのメディウムの特性として帰属させる必要がでてきてしまう。
元から当たり前に重要視されてた物事を「これからは〇〇の時代になる」と大袈裟に喧伝するレトリック、いい加減廃れて欲しい。
スミッソンの本ってなんで翻訳でないの
異体字、ほとんどの場合が字の書き方のバリエーションであって字の同一性は維持されているというのが文化的慣習だったはずが、文字コードで区別されたがゆえに同一ではないものとなってしまったかわいそうな文化現象
そしてメディアとしての電気の光といわれて思い浮かんだのはマーティン・クリードの電気がついたり消えたりであった
https://en.wikipedia.org/wiki/Work_No._227:_The_lights_going_on_and_off
en.wikipedia.org
Work No. 227: The lights going on and off - Wikipedia
ホット/クール、話としては面白いけれども、この性質をはたしてメディア側に属するものとして見ていいのかがぴんと来ていない
マクルーハンの次のような記述とかを読んで、ふとダン・フレイヴィンとかブルース・ナウマンの蛍光灯を使った作品とかを思いだしたんだけど、この関連性についてはやっぱりいくつか論じられているっぽいな。
"これに関しては、電気の光を例にとれば、よく分かるであろう。電気の光というのは純粋なインフォメーションである。それがなにか宣伝文句や名前を描き出すのに使われないかぎり、いわば、メッセージをもたないメディアである。この事実はすべてのメディアの特徴であるけれども、その意味するところは、どんなメディアでもその「内容」はつねに別のメディアである、ということだ。" "電気の光はそれに「内容」がないがゆえに、コミュニケーションのメディアとして注意されることがない。そしてこのために、それは人びとがいかにメディアの研究をしにくいかを示す記帳な例となっている。電気の光はそれがなにか商品名を描き出すのに用いられるまで、メディアであることが気づかれないからである。"
https://visipri.com/ad-dictionary/124-CoolMedia.php この記事、「クールメディア」について、「広告業界において、受け手が積極的に情報を解釈し、参加することを必要とするメディアのことを指します」とか完全にマクルーハンの定義なんだけど、広告用語としてあるなんて始めて聞いた。
いま自分は自分の言いたいことを完全に把握しているつもりであるけど、たぶん理解される内容にはなっていない自覚はある
Smalltalkのことを考えていたんだけど、ケイの想定として
receiver message
みたいな構文があり、メッセージの解釈はレシーバーの自由に任されるというのは、クールなメディアの性格で、レシーバーが受けとるメッセージは自己記述的ではない。Smalltalk では 3 + 4 は 3 が + 4 というメッセージを受け取るけど、このメッセージをどう解釈しようとレシーバーの自由である。そしてこういう性格は、この言語環境が Smalltalk と名付けられたとおりお喋りがモデルになっている。
ところで、Smalltalk-76になってクラスブラウザとかでてきてみると、これは現代のLSPとかにもっと近くて、読むべきテクストみたいになってくる。それに合わせて、クラスも自己記述性が高くなり、文芸的プログラミングみたいな自己説明をするようになる。これはマクルーハン的にはホットなメディアである。
Smalltalk なんかいま使っていないけど、いまの多くの人にとって、プログラムを「読む」態度は脚注含めて「テクストを読む」みたいな態度にちかくて、お喋りとは遠い。
解像度が低くて、想像力による補いがたくさん必要なのがクールで、自己充足的で自己記述的なのがホット。解釈みたいなことが起きるのは後者なんだけど(解釈のための注釈がテクスト内部に埋まっていて「内部」を取り出すことができる)、クールなメディアが伝える情報は「解釈」という読解行為より連鎖反応とかそういうのが起こりがち、みたいな性格がある。
以外と使いやすい語彙である気はしている
マクルーハン的な「クール」と「ホット」の対比って今積極的に使う人おるんかな
閲覧注意にした。
戦没者慰霊のかたちを諸国の例と比較して考える、というのが老後の趣味のひとつになりそうだが、仙台の護国神社で、しょえーとなったのがその発端。というか、靖国も行ったことあるけどさ。。
ちなみに世田谷観音の平和を祈る歴史観は、やはり西欧列強の横暴に立ち向かってアジア諸国の独立を果たしたよね、というものでした。しょえー。。。
http://www.setagayakannon.com/index.cgi?mn=kyo&id=heiwa_kannongyou
setagayakannon.com
世田谷観音「特攻平和観音経」
落ちてるから仕方なくない?
不憫だろ 俺が
亀はいるけど温泉マークは粘着力の弱さによって脱落し床に転がっている、たぶん踏みつけていると思うのだけど自覚はない
そういえば、「深圳出身の詩霖さんも、似たようなこと(アイデンティティの根拠の薄さ)を感じる」と小林さんから聞いたのが面白い。中国の他の都市なら歴史もあるだろうけど、深圳ならそうだろうなあ、と。
埋立地や郊外、ロードサイドなどの交換可能なアイデンティティが、架空のノスタルジーであるリミナルスペースやバックルームなどの世界的な人気に繋がっているのだろうという話もした。
小林さんは初対面の方だけど川崎の方だから、千葉市出身の自分の考えることの伝わり具合が良くて、楽しかったな。





