これはバルトの立場を言い直しただけだけど、これとお喋りというモードがだいぶ違う。

tenjuu99(天重誠二)
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net
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読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など いろいろ雑につぶやいています SPACE NOBI というアートスペースやっています
- SPACE NOBI
美術批評、または美術史の役割は、作品を「テクスト」として措定して読解可能なものに変換することだとも言える。批評家は、作家やギャラリーなどとの利害関係について距離を取るというより、読者としての自律性をまずは確保しようとする。
バルトの「作者の死」って、テクストは永続化され、読者も持続的に存在している。マクルーハンと比較すれば、マクルーハンはむしろ「テクストの死(=読者の死)」みたいなことを考えていたはずで、彼がテクストに代わって現代のメディアの中心的なモードになると考えていたのが口話・音声とかかとおもう。テレビで喋る芸人みたいな。こういうのは、発話者の身体にべったりくっついていて、作品/テクスト未満的な存在としてある(度合いによるけど)。美術での映像の利用とか、わりとこのへん考慮しておいたほうがよい気もしている。テクスト論的な読解態度も一つのモードであるというか。
空間における作品・人間の密度ということはけっこうでかいと感じていて、ギャラリーってそんなデカいわけじゃないから、一つ一つの作品が、空間に対して占めるウェイトがでかい。美術館は空間がデカいから、作品の空間に対する存在感が弱くて孤立している、あるいは空間に対して支配的な振る舞いをしづらい。美術館で作品が支配的な振る舞いをするとイマーシブとかつまらない方向になる。美術館だと「読書」的なモデルで作品が提示されるのが快適だと感じる。
美術館での展覧会は、この文脈で言って、「テクスト」としての性格を満たすように作られている。美術館とギャラリーって根本的に違っていて、場の力がかなりでかいと感じる。ギャラリーで、作者の意図を無視することはほぼあり得ない。
ギャラリーでの展覧会、そもそもおおくの一般鑑賞者からすると入りづらいもので、人間関係の親密性などを基礎にできあがっているように見えるし事実そうだとおもう。こういうのも、バルトがイメージしていたであろうようなテクストの公開性とは大きな隔たりがある。ギャラリーでの展示は、半-日記/半-作品のような性格があるかもしれない。いや日記ではないんだけど、このテンポラリーな時空間から「作品」と呼ばれる何かを取り外すことができない、とはギャラリーをやっていると常々感じる。そういう意味では、テクストは文脈から取り外すことができるし、「作品」と呼ばれるものもそういうものだ。
あと、展覧会があると、わたしはお客さんにめっちゃ説明するんだけど、こういう鑑賞体験も、読書というモデルとはかなり隔たりがある。展示って、時間が限定されていること(テンポラリーであること)と、作者やギャラリーオーナー・他の鑑賞者と空間を共有しつつおしゃべりする場であるという性格があり、人と話していると誤解を含めて連想でいろいろ展開する。そしてほとんどの場合に断片しか伝わることはないが、その断片は脳内で再構成され、その人独自のビジョンが構築されている。
podcast とか、おしゃべり的なモードがこれだけ流行しているのも、読書をモデルとした鑑賞行為とはかなり隔たってきていると感じる。
バルトの「作者の死」って、テクストは永続化され、読者も持続的に存在している。マクルーハンと比較すれば、マクルーハンはむしろ「テクストの死(=読者の死)」みたいなことを考えていたはずで、彼がテクストに代わって現代のメディアの中心的なモードになると考えていたのが口話・音声とかかとおもう。テレビで喋る芸人みたいな。こういうのは、発話者の身体にべったりくっついていて、作品/テクスト未満的な存在としてある(度合いによるけど)。美術での映像の利用とか、わりとこのへん考慮しておいたほうがよい気もしている。テクスト論的な読解態度も一つのモードであるというか。
@seki_takanao 留保の内容はさっき書いたとおり、論そのものが公論として開かれた状態にあるか、もしくは私的言語として閉じた状態にあるかのどちらかとして、性格を明らかにしておくことだと思う。 ただ、「これは私の意見だけど」と前置きをして、つまり私的言語であるかのように前置きをして、ハラスメント的な物言いが起きる場合もあるので、このへんもふくめて言語のありかたを管理しておく必要があるんじゃないか、ということです。バルトの作業はそこがかなり丁寧に見えるから例として出した。
@seki_takanao それはそのとおりで、そこに異論は全くないんだけど、「批評家を自認するのであれば」というところが強調ポイントで、批評家として関貴尚が、クラウスという批評家と作家のすれ違いの事例を引いて、批評家の発言を擁護する、という形に(意図してか意図せずか)なっているということに、もっと注意したほうがいいとおもう、ということが、言いたかったことです。 批評家の場合、批評的語り自体がある程度権威的に見えてしまうということは、書き手としては意識しておいたほうが良いのではないか。ここで、クラウスの語りを肯定してシャーマンの語りを無視しても構わないという形に、結果的になっているというのは、外形的に見れば、二つのナラティブがあって批評家のナラティブを優先しているように見えるわけだけど、それがクラウスみたいな固有名とセットででてくると権威主義に見えちゃうから、注意するに越したことないよ。
自分の考えでは、これ(批評家の語りを作家の語りより優先すること)は肯定されるべきだが、もっとおおくの留保が必要という意見です。
いまさらこんなことに関心がある人がいるのかわからないが...
最近クラウスを読みなおして思ったことだけど、彼女はグリーンバーグを「本質主義」だと考えていた(「絵画の本質は平面である」という言い方をとる)けど、実際にはグリーンバーグは、まっしろなキャンバスでも絵画であると述べるのは構わないが、それが良い絵画であるかどうかは別であるとしている。グリーンバーグは、非芸術的外観をもてあそび「ただのもの」と区別がつかなくなるような作品とずっと向きあって、それが「ただのもの」であるのか、それとも優れた芸術であるかを測っていた。彼にとって芸術作品というのはそもそも論争的なテクストみたいなもので、優れた芸術作品は、「絵画の本質」として考えられたものをズラして見せ、再定義する。こうしたことが起きるのは感性という場においてで、だから判断は常に留保されなければならない。「絵画の本質」みたいなものを彼は保持したけど、常に留保としてであって、というかアーティストの活動によって動かされるべきゴールポストとしてあったというほうが正しいとおもう。 このへん、その弟子であるフリードとクラウスは、師匠を「本質主義」と見做して批判したけど、実際にフリードがやったのは、「ただのもの」と「芸術」のあいだにアプリオリな線を引き直したことで、グリーンバーグの留保を台無しにする作業だった。クラウスはここまで極端ではないにしても、芸術は暗にアプリオリなカテゴリとして通俗的事物と区別されている。実際のところ本質主義者だったのはフリードとクラウスだとおもう。
@seki_takanao これは君が批評家を自認するのであれば、もっと丁寧に考えたほうがいい気がするよ。 実際のシャーマンの発言もクラウスの文章も読んでいないのだけど、それを置いておいても、次のようなことはたぶん言えるはず。クラウスがもっと無関係なところから文脈を引っ張ってきてシャーマン解釈に当てるならともかく、クリンプやフォスターという身近な存在への回答とみなすのは、クラウスの世界の狭さのほうが目立ってしまって、インナーサークル言語を語りすぎているように見える。シャーマンの違和感はそういうことじゃない?クラウスにはいつもそういう狭さがつきまとっている(オクトーバー周辺でもっとも閉鎖的な書き手だとおもう)。 作品の読解は作者の意図から離れているという見解が肯定されるには、批評の公益性か、批評言語の私性のどちらかが語られる必要があるはずだとおもう。バルトは後者にふりきって、そのための理論整備までしたのが『明るい部屋』で、もはやここではテクスト=写真とは自己のみを刺しつらぬき、私にしか見えていないものを投影する場でしかない。バルトの批評言語は文学そのもので、その言語の支えを「私」に置いてしまった。ここまでやったら、バルトがどんな妄想を語ろうと、人はもう何も言えない。 そうではなく、批評が公論であるのなら、シャーマンには当然反論を述べる理由があるし、クラウスの言明はすくなくともシャーマンを含んだ「公」ではなかったのでは?と思う。また、公論が公論であるためには、健全な議論に開かれてあるべきであるけど、クラウスの態度はおうおうにしてそうは見えず、一方的な見解が多すぎると思う。彼女は、書き方こそ「論争的」に見えるけど、実際にはそうではなく、反論は閉じている(ユベルマンもマノヴィッチもクラウスに論争を仕掛けたけど無視をもって遇した)。 作品をクリンプやフォスターへの応答とみなすのは、作品の文脈を狭いところへ閉じこめていて危険だとおもったので、ちょっと書きました。
ほんとうに言っててほしかったけど、コラだった
スミッソンのテキストがオンラインでいくつか読めるの知らなかったけど、この文章めちゃくちゃいいな。 A Cinematic Atopia https://holtsmithsonfoundation.org/cinematic-atopia
holtsmithsonfoundation.org
A Cinematic Atopia | Holt/Smithson Foundation
ご飯11時とかに食べてたりする
これはAIに相談しながら整理した内容だけど、こういうの聞いていると、ちなみに October という誌面のレイアウトはモノクロ写真で、おそらくそこには Artforum がカラフルな誌面でまさに「テキスト+写真」という異種混淆的な誌面構成を志向しているのに対抗した禁欲で、これはこれで「テキストのよる純粋性志向」があるのでは?といってきたのはけっこうおもしろいなとおもった。バタイユの「ドキュマン」が好きなくせに、文筆家としては純粋志向になってしまうという感じ。
ベンヤミンもバルトもマクルーハンも、写真を異種混淆的なメディアだと考えたとおもうけど、それは写真の本質としてそうという話ではなくて雑誌や新聞というメディアにおいて配置されるからで、こういう俗っぽいメディア分析をずっとやっていて、芸術上のメディウム分析ばかりやっているわけではない。クラウスはこういうのをほとんど完全に無視してベンヤミンやバルトをグリーンバーグの体系に押しこめてしまう。
マクルーハンへの否認の身振りを読みたくなっちゃうのは、クラウスのマノヴィッチへの敵意があって、この記事に書かれているような黙殺はマクルーハン流のメディア論がここで返ってきちゃったからだ、と言いたくなる。 https://www.repre.org/repre/vol19/greeting/
repre.org
表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉:PRE・face
ロザリンド・クラウスの観念というか理論について整理していて、クラウスは写真をキャプションを必要するとかそういう意味で「異種混淆的だ」と言い(画像とテキストみたいなこと。『メディウムの再発明』参照)、それを指摘したのもベンヤミンだというんだけど、この「異種混淆性」が起きるのは本とか雑誌とか新聞とか、そういう場であって(このリストに展覧会を追加してもいい)、写真の本性でもなんでもない。だけど、クラウスは「写真がもつ本来的に異種混交的なこの構造は」とか言ってしまう。つまり写真の本質主義的に理解してしまう(グリーンバーグのことは本質主義だからって理由で批判したくせに)。 メディウムの異種混淆性が、写真というメディアの本質に帰属させられてしまうのは、彼女の理論のなかに「場」とか「環境」といった概念がないからで、メディウム間の差異という体系しかない。かつ、なぜ「環境」という概念が抑圧されているかと言えば、おそらくマクルーハンに対する否認ではないかと思われる。マクルーハンこそメディアの異種混淆性を強調した人だったが、メディアとは人は気付くことがない環境であると考えた。新聞とかテレビとかはこういう異種混淆性が発生する場・環境なので、メディウムスペシフィシティという概念はここでは相対化されてしまう。クラウスの観念のなかには、メディウムの異種混淆性が発生するような「場」がないもんだから、そのメディウムの特性として帰属させる必要がでてきてしまう。
元から当たり前に重要視されてた物事を「これからは〇〇の時代になる」と大袈裟に喧伝するレトリック、いい加減廃れて欲しい。
スミッソンの本ってなんで翻訳でないの
異体字、ほとんどの場合が字の書き方のバリエーションであって字の同一性は維持されているというのが文化的慣習だったはずが、文字コードで区別されたがゆえに同一ではないものとなってしまったかわいそうな文化現象
そしてメディアとしての電気の光といわれて思い浮かんだのはマーティン・クリードの電気がついたり消えたりであった
https://en.wikipedia.org/wiki/Work_No._227:_The_lights_going_on_and_off
en.wikipedia.org
Work No. 227: The lights going on and off - Wikipedia
ホット/クール、話としては面白いけれども、この性質をはたしてメディア側に属するものとして見ていいのかがぴんと来ていない
マクルーハンの次のような記述とかを読んで、ふとダン・フレイヴィンとかブルース・ナウマンの蛍光灯を使った作品とかを思いだしたんだけど、この関連性についてはやっぱりいくつか論じられているっぽいな。
"これに関しては、電気の光を例にとれば、よく分かるであろう。電気の光というのは純粋なインフォメーションである。それがなにか宣伝文句や名前を描き出すのに使われないかぎり、いわば、メッセージをもたないメディアである。この事実はすべてのメディアの特徴であるけれども、その意味するところは、どんなメディアでもその「内容」はつねに別のメディアである、ということだ。" "電気の光はそれに「内容」がないがゆえに、コミュニケーションのメディアとして注意されることがない。そしてこのために、それは人びとがいかにメディアの研究をしにくいかを示す記帳な例となっている。電気の光はそれがなにか商品名を描き出すのに用いられるまで、メディアであることが気づかれないからである。"
https://visipri.com/ad-dictionary/124-CoolMedia.php この記事、「クールメディア」について、「広告業界において、受け手が積極的に情報を解釈し、参加することを必要とするメディアのことを指します」とか完全にマクルーハンの定義なんだけど、広告用語としてあるなんて始めて聞いた。

