DESIGN.md とかによって、より期待に近いものを機械に吐き出させることはしやすくなるんだろうし、完全に記述しなくてもなんかよしなにやってくれるという LLM の特性からすれば、そもそも完全に記述するというところまでは必要ないのかもしれないけど、少なくとも「今までよりもうちょっとデザインついても明示して AI なりを意図通り動かす」というアプローチではあり、「デザインを言葉で記述する」ということに向かっていく話ではある。
プロンプトからのAIと "対話" しながら進めるという大きな流れは変わってないなかで、「デザインを言葉で記述して作る」ということの歪さみたいなものはうっすらずっと感じている。
(プロンプトに画像やキャプチャを渡したりすることもできるから部分的には言語で表現せずにそれによって「わからせ」することもできるけど)
デザイナーとして会社とかチームのなかで働くと、AI 以前であっても同僚やディレクターや相手先の会社などに対して言葉でデザインについて説明することはたくさんあるし、むしろデザイナーこそ「デザインについて話す仕事」と感じるくらいその頻度も重要性も高いことは、自分も身をもって感じてはいるんだけど、
1. 「何を作るか、作りたいか」の言語化(自分or 誰かとの合意のため)
2. 作ったものに対する言語化(なぜこうなっているか、の合意のため)
という2つの大きな言語化工程の間には、すくなくとも自分には言語で記述しきれない話や出来事があると思っていて、自分はそこにある種の自分という人間の言語化し得ないなにかがあるとうっすら感じ続けながら仕事してきたような感覚もある。
デザインにおいても言語化というのはめちゃめちゃ大事だというのはほんとに痛感してるけど、LLM みたいなものをプロンプトからコントロールしてすべてが叶うようになる、という世界観の裏には、「言語化されうるものこそが本質」(それ以外が仮にあってもそれは人間が関与したり考えなくても、LLM というある種の新しい「世界」が勝手に実現してくれるのである」という雰囲気をどこか感じていて、それはちょっと危険というか「言葉」を信用しすぎているような気がしてる。
言葉って、もうちょっと存在自体が曖昧で、なにかの実在イメージを写像として記述しているだけなんじゃないのかなあということをもやもや考えてる