聾教育って辿っていくと、こういう音に関するエポックメイキングな人物になるんだよなぁ... https://ja.wikipedia.org/wiki/アレクサンダー・グラハム・ベル

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読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など いろいろ雑につぶやいています SPACE NOBI というアートスペースやっています
聾教育って辿っていくと、こういう音に関するエポックメイキングな人物になるんだよなぁ... https://ja.wikipedia.org/wiki/アレクサンダー・グラハム・ベル

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ストリートの欠如 ストリートピアノじゃないからピアノと呼ぶ必要がある
今回色々言われてるとことは違うけど、馬車道駅とかはストリートピアノ置きつつホームレス排除に熱心なので、結局はジエントリフィケーションの一環でしょ?って冷ややかに見てる。練習なんかガンガンやったらいいと思うわ。
https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-418649.html

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みなとみらい線の馬車道駅で、ホームレス排除の動きが顕在化していることが22日、関係者への取材で分かった。近くのマンション住民らから苦情が相次ぎ、鉄道事業者は居座らないよう求める大量の張り紙を掲示。同様の苦情を受けた横浜市も静観を続けていた…
@KitaitiMakoto ありがとうございます。この作品はちょっと特殊といいますか、10年なにかを書きたいというか、なにかを書く責任があるんじゃないかという謎の気持ちがありまして...。とはいえ、それでも不勉強すぎて、書きながら知る・理解することが多かったとおもいます。とくに木下さんの「声を剥がす」がスッとあまり入ってこなかったのが、何度も書きなおすなかで理解できるようになったというのがあり、書いてよかったと自分ではおもっています。
知覚は環境に適応するための全体的なシステムであると言ったほうがいいのか。単独の感覚器官の問題ではなく、使用する感覚器官の差は、感覚器官の相互作用によって世界認知があるのだから、その相互作用の仕方が異なっている。環境と身体条件によって感覚器官の相互作用の仕方が異なる、というか。
「虫の視覚」みたいな科学展示で、いくつもの複眼が複数のテレビモニターみたいに表現されているのが間違っているのも同じ理由でそうなんだとおもう。身体は行為のなかで感覚器官をどうにかして構造化するわけで、自己身体を基準に他者(虫を含む)の知覚を類推できるわけではない。
知覚の差って瞬間的な差の問題ではなく、たとえば目が見える人と見えない人とで世界の見え方がどう違うかということについて、「目の代理で他の感覚器官をこのように使っている」みたいな理解の仕方ってかなり問題があるのだと、木下さんの論考を読んで気付かされる。知覚の構造は成育環境から丸ごとできあがってくるから、「ある器官を別な器官で代替している」という理解は完全に間違っている。知覚は身体的条件と教育とを合わせて構造化されていく。身体はそれだけ歴史的なものだ。
@satomuch できたら、展示を見てから読んでいただきたかったところです(注意として書いていたのをわざわざ削ってしまったのですが)。暴力的な作品であることは間違いありませんが、それでも見る価値がある作品だと考えています。
@satomuch ああ、見られていないのですね...(わりと見ている前提の書き方をしていました)。 作品の展示は、たしか木下さんの許可なしにはできないようになっていたとおもいます。 横浜美術館での展示の主体は横浜美術館で、百瀬と木下さんは許可をしているだけだとおもいます。なのでその意図の責任は横浜美術館にあるかとおもいます。ここ数年で、この作品が展示される文脈は、障害と美術という文脈で展示されることが多く、それに比すれば横浜美術館での展示は文脈的に浮いているし展示意図の説明がかなり弱いと感じます。メアリー・プラットのコンタクト・ゾーンを使って分析することはできるとおもいますが(口話はマジョリティとマイノリティの言語的交錯だとも言えるため)、そういった分析が図録にもなく、新収蔵作品だから展示しているようには思います。
このくらい(12000字)
さいきん聾についてちょっと書いたりしてたのは、この記事を書くためでした。 https://blog.tenjuu.net/2025/03/failing_to_meet_others 百瀬文「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」はけっこう危うい作品で、文脈の補足としてはこのくらいあったほうがいいんじゃないか。
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横浜美術館「おかえり、ヨコハマ」展を見にいったら、百瀬文「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」が上映されていた。この作品は2013年に百瀬の修了制作として発表されたものである。作者の百瀬は武蔵野美術大学でわたしの先輩にあたり、この作品は当時見ている。「おかえり、ヨコハマ」展は横浜を主題とした展...
ジョン・ケージの無響室における聴取というのは耳による「音」の聴取ではない。身体における「響き」みたいなものが、「音」のプロトタイプとしてあって、それが「あらゆる音のイメージに変化するもの」である。
聾者にとってのジョン・ケージ、じつは先天的聾の木下知威さんが「声を剥がす」にちょっと触れていて、聾の身体を「常に無音室のように体内の音が鼓動しているなかで」うんぬんとあり、この身体内の鼓動を(だとおもうんだけど)、「あらゆる音のイメージに変化しうるもののようにおもえる」としている。無響室というのは聾の身体になぞらえられるんだけど、そこでケージが「沈黙などというものはない。無音室に赴き、汝の神経系統が作用し、血液が循環している音を聞かれよ」というのは、聴力によらない「音」こそが「原・音」(あらゆる音のイメージに変化しうる)としてある、というようなことだろう。https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/41848
repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp
UTokyo Repositoryは本学で生産されたさまざまな学術成果を電子的形態で集中的に蓄積・保存し、世界に発信することを目的としたインターネット上の発信拠点です。 The UTokyo Repository is the system to store and provide digital resources created by members of the University of Tokyo. Its main purpose is to develop digital collections, make them available online, and preserve them for long-term access.
アガンベンの翻訳本多すぎて何から読めばいいんや
47news.jp
共同通信世論調査で、4月13日に開幕する大阪・関西万博に「行きたいとは思わな ...
このイベント、当日は手話通訳2人、文字のリアルタイム書き起しあり、視覚障害のための音声など充実した情報保証があったとのことだが、このダイジェスト版ではカットによって手話が画面外だったり手話通訳者の背中しか映っていなかったり、手話が見えないため文脈把握が困難になっている、という指摘が木下さん(司会者で先天性の聾)自身からあって、なるほどなぁってなった。動画におこすときのことを考えた画角・人の配置が考慮される必要があるという。 https://www.youtube.com/watch?v=bd_PUxjQuOM

youtube.com
※字幕がございます。必要とされる方は字幕をオンにしてください---京都国立近代美術館オープンデー2020「ひらきまつり!」萌えいずる声 百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》上映+シンポジウム<概要> わたしたちの生活は声とともにあります。会話をはじめ、映画・アニメーションや歌謡のように、声は人間の表...
聴者にとって自明であることは、自分が話した声が自分で聞こえるということで、このフィードバック機構が声の制御を可能にしている。先天性聾者の場合は自分が話す声を聞くことができない。それゆえ、「話す」ことをトレーニングするときに鏡を必要としており、それは発声のフィードバックに視覚を代用とするためであるらしい。しかし、そうすると対面で話すのは難しい(自分の口を見ることができない)。
手話言語が手話言語内に学術研究ができるほどのリソースが蓄積できれば話は別なのだろうけど、それには困難がある。手話の文字化もおこなわれていないとおもう(おこなわれているのか?)。高等教育は日本語なり英語なり大規模人口を抱えた言語で受ける必要があるのだけど、手話を第一言語として獲得すると、このへんが難しくなってくる。日本語リソースに自由にアクセスできるということじたいが、先天性聾者にもできる人とできない人がいる。
先天性の聾で日本語の読み書きに不自由がないという場合、おおくの場合は耳が聞こえないのに話し言葉としての日本語を獲得している。「耳が聞こえない」状態で「話し言葉」を獲得する困難ははかりしれない。高度な日本語能力がないと、日本国内で高等教育にもアクセスできなくなる。
「書き言葉」が「話し言葉」を記録するためのものである以上、聾者が「書かれた言葉としての日本語」から日本語を学習することには困難がつきまとう。先天性の聾で日本語がめちゃくちゃ上手い人は、めちゃくちゃな努力というか苦労をしている。なので、字幕があればアクセシビリティが達成されているというふうにはならないことがしばしばある。
資本家による地域開発ゲームだし
でもジョン・ケージとかは特殊というか、無響室にさえ無音なんてないって言っているくらいだから、この有徴・無徴の関係を解体してしまっている。聾者にとってのジョン・ケージがどういう存在になるのかはなんとも言えないけど。
聾者の世界を「無音」として把握するのはまさに有徴化なんじゃないかというようなことです。聴者の世界は自明に存在するものだから「有音」とは名付けられない(無徴)。
「無音」という表現は一般的なのに、「有音」という表現は音韻論の語彙にしか見当らないのって、聴者が普段音のある世界にいることを前提としているから「無音」だけ特徴的になるのであって、有徴・無徴みたいなのを考えてしまう
展示の準備はじめるとやっぱり楽しいな モノがあると空間が変わってみえて楽しい
アガンベンを読んでいないし積んでもいないのだけど、アガンベンの知識が必要っぽいところがあって困る