メディアが舞台を作る能力を無くしているというのは、どの業界でもおおきな傾向としてある気がする。

tenjuu99(天重誠二)
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読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など いろいろ雑につぶやいています SPACE NOBI というアートスペースやっています
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50年代〜00年代くらいまでの美術メディアの傾向と、ここ10年くらい、とくにここ5年だともう決定的に変わっている。〜70年くらいまで、そもそもアーティストはメディアを挑発して批評家に書かせるようなことを意識しているから、雑誌そのものが美術が展開する舞台であったりする。で、そのあとだと、中原佑介とか椹木野衣とかが、自分でキュレーションしてデカい展示をするとかがあり、もうこうなるとライターというレベルではないんだけど、まあでも彼らは職業的なライターであり(ぜんぜんアカデミシャンですらない)、舞台を作ることに長けているという感じはある。いまはこういう動きは見当らないんだけど(カオスラウンジとかが最後くらいじゃないか)、それは才能ある書き手がいないからなのか、それとも構造的なものなのか。
「ライター 稼げない」で検索したら工夫とチャレンジと持続力があれば稼げるというのがあって、まあそりゃそうだろうけどそういうこと?ってなった。
これ凄いいいと思った!
資本主義のトラックからも逃れられる書き手と読み手の相互扶助の仕組み。
https://x.com/x_Atara_303/status/1962422222603055149?t=KncBusyOqu0cmBmM_n5vHw&s=19
note じゃないやつでやってほしかったな...
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70年代に美術評論の活動をはじめた北澤憲昭が、こうした状況にたいして嫌気がさしており、その状況と相似形だった明治初期の制度化する美術への関心のはじまりで、そういう調査が結果的には美術史という制度に組み込まれ、まさに官僚的な動きをしていた高階秀爾に褒められてうれしい、みたいなのは皮肉ではある。批評の退潮というか、官僚化みたいな流れがある。
いわゆる「非政治的フォーマリズム」というのもこの流れで、いってしまえば美術の官僚化とでも言える。作家が自主的スペースで発表するのではなく美術館で発表する、みたいなこと考えると、まあ迂闊・過激なことはできない。丁寧にキャリアを積んでいく必要もでてくる。70年代後半から90年代の状況がこうであってみれば、批評空間なんかはむしろこの状況への反動として現れたとも言える。
日本の戦後美術、50年代〜70年ころまでは明確に流れがあって、めちゃくちゃ雑に言えばアクション・ペインティングの誤読(具体)にはじまって、制度批判(読売アンパン、反芸術)〜オフミュージアム的な流れ(反芸術〜もの派・美共闘)で、ここらへんまではまじで明確な流れとして理解できる。それ以降流れを見失うのは、美術館建設ラッシュがはじまって文脈関係なくデカ絵画・彫刻が登場してきたからで、新左翼運動の退潮と歩を合わせていると言っていい。
椹木野衣の周辺だけが悪い場所なのではないか。
読みなおそうとおもって開いているけど、悪しきポストモダンすぎて読むのがつらい。
こういう叙述でだいたいタネが尽きているというか、わりとありがちな「日本は近代ですらない」を前提に、その欠損を畸形として描くのが椹木の手口。
"もしかすると「日本の前衛」とは、乗り越えるべき「近代」を未完に放置したまま、「近代」を乗り越えるための思いが、いわば「超近代」的な身振りとして自立してしまった、「奇妙な前衛」なのではないのか。"
『日本・現代・美術』、むかしはたいしたこと言っているふうに聞こえていたけど、まじでたいしたこと言ってないというか、まじめな探求が一切ないな。
美術について、同時代的なパラダイムのようなものがあると語りうるようになったのって、戦後なんじゃないかとおもう。科学哲学でパラダイム理論がでてくるのも戦後だけど。このとき、「近代」というものはひとつのまとまりとして見えているんだけど、各所を詳細化していくと、「近代」の経験が一つであるはずがなく、たとえば植民地における「近代」の経験は「近代化」と呼びうるようなものであるはずがない。
日本の近代化というものを追いかけていけば、それがフランスの近代とはよほど異なった形をしていて、単一の「近代」というものを取り出すのは困難だとおもうのだけど、単一の「近代」があると考える論者にとって、日本の近代とはヨーロッパ近代の影でしかなく、いつも「未然の近代」とでもいうものになるんだとおもう。
宮川の「アンフォルメル以降」を読んで、彼にとって「近代」というものはバリエーションがない単一のものだ。だからその出発点がボードレールであることは動かないし、宮川が日本美術史にあまり関心をもたなかったのもそのへんが理由だとおもう。
宮川淳もこういう弁証法的な記述だなと思うけど、こういう弁証法っぽいものが通用するのって、それが調和のイメージをもとうと分裂のイメージをもとうと、前提となるのはある種の単一性で、それは国家とか日本とか美術とかなんでもいいんだけど、そういうものの単一性がある。それが通用する時代も、いがいと限定されているんじゃないかという気がしなくもない。
「内在批判にとって成功したといえるのは、客観的諸矛盾を欺瞞的に調和させ融和する形象というよりも、むしろ諸矛盾を純粋に、頑として、自己の最内奥の構造に刻みこむことによって、調和の理念を否定的に表現するような形象である。」
これはアドルノが「文化批判と社会」のなかで自身の方法論を語ったさいの言葉だが、戦中世代の批評家のひとつの特徴として、矛盾の解決ではなく、矛盾を矛盾としてそのまま書き出そうとすることろがある。
戦中世代は、敗戦によって言語体系の激変に直面したわけで、ゆえに言語の自明性それ自体を批評の対象にせざるをえなかった。それを批評の方法論として実践したのが、アドルノであり、日本の場合であれば、織田達郎。言説を批評の対象にしたミシェル・フーコーもそう。フーコーは、フランスがナチスドイツに敗れ占領された経験が研究の出発点になったと述べている。
沖縄の近代・彫刻・風景──美術館コレクション展「沖縄の彫刻たち」(沖縄県立博物館・美術館)レビュー(評:勝俣涼) https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/okimu-review-202508
tokyoartbeat.com
沖縄の近代・彫刻・風景──美術館コレクション展「沖縄の彫刻たち」(沖縄県立博物館・美術館)レビュー(評:勝俣涼)
戦後沖縄の近代彫刻に焦点を当て、沖縄出身または沖縄にゆかりのあるアーティストの作品を紹介するコレクション展が10月19日まで開催中。美術評論家の勝俣涼が本展をレビューする
多摩の光おもろそう
今回安田靫彦の「黄瀬川陣」はポスター展示だったけど、そもそも実物が近美所蔵品で、ポスター展示だけというのは意味がわからなかった。
安田靫彦の作品、さっきたまたまXでツイート見たけどこういうのめっちゃ展示してほしかったな
人間と物質展の図録、11,000円かとおもったら110,000円じゃねぇか
ついでに椹木野衣「日本・現代・美術」に「アンフォルメル以前」という宮川批判が載っているので読みなおしてみたところ、これはたんにムチャクチャなだけの文章だった。ていさいだけは批評っぽさを装っているだけにタチが悪い。
宮川の制度論が、具体的な国家による美術制度の形成とかまで行かなかったのが、いまだと若干中途半端な哲学的思索とうつってしまうけど、そういう具体的な制度論(北澤らによる)がでてくるまでに必要だったのは、ポストコロニアリズムだったとおもう。ポストコロニアリズムによる近代の相対化がなければ北澤のモダニズムの発生を思考する発想はたぶんなくて、宮川がそうだったように哲学的な制度論にとどまっていたとおもう。全共闘と三島が議論する内容が異常に哲学的なのを見ていると、そうなんだと思う。
ところで、中原にせよ宮川にせよ、制度批判的な文脈と一種のアナーキズム的な感性がありつつ、批判の対象となる「制度」のなかに国家というものがほとんど見えてこないのが、びっくりする。だから「近代」も「美術における近代」みたいな論点に閉じている面があり、美術が具体的にどのように制度化されてきたかをまったく論じようとしない。このとき論じられなかった対象が北澤憲昭とか佐藤道信とかになるのだから、かなり先の話だ。
「アンフォルメル以降」を最初に読んだのがもう何年前なのかわからないけど、論じられている内容があんまりわかっていなかった。というかアンフォルメルがそんなに重要だったというのが理解できていなかったんだけど、中原を読んで、アンフォルメル以前と以降でははっきりした切断があり、その流れが読売アンパンの中期から後期、ハイレッドセンターの美術外美術の活動を生みだしている。こういうのを単にわかっていなかったんだけど、その理由もいま振り返ってみれば2000年ころのアメリカ美術批評言説の輸入とその言説空間のなかで自分が思考していたからで、日本でアンフォルメルが切断したものをこの言説は塗り潰していたとおもう。
先日三島対全共闘のこの箇所見直していて、宮川とか中原読んでおもったけど、全共闘も三島もおそらく宮川とか中原とかのこのへんの論争読んでいるとおもう。 https://hollo.tenjuu.net/@tenjuu99/0198ecea-e7cb-79f8-bfb9-e3c90b251798
hollo.tenjuu.net
https://youtu.be/Ynt2dWQytZg?f…
https://youtu.be/Ynt2dWQytZg?feature=shared 机がその本来の機能を剥がされバリケードとして利用されるには、まず机が事物として扱われて機能が剥がされることが必要で、それが可能になるのは諸君が生産諸関係から疎外されているからではないかという三島の喝破、あきらかに同時期のアメリカでのヒッピームーブメントと呼応している指摘だな。革命の主体は従来の理屈では労働者という生産関係に埋め込まれた存在だけど、この時期には別な主体の可能性が模索されている、といえばまあ聞こえはいいが、革命の主体としての理論的根拠はたぶん作れない。
https://youtu.be/Ynt2dWQytZg?feature=shared 机がその本来の機能を剥がされバリケードとして利用されるには、まず机が事物として扱われて機能が剥がされることが必要で、それが可能になるのは諸君が生産諸関係から疎外されているからではないかという三島の喝破、あきらかに同時期のアメリカでのヒッピームーブメントと呼応している指摘だな。革命の主体は従来の理屈では労働者という生産関係に埋め込まれた存在だけど、この時期には別な主体の可能性が模索されている、といえばまあ聞こえはいいが、革命の主体としての理論的根拠はたぶん作れない。

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三島由紀夫・伝説の討論会5/5 50年ぶり秘蔵映像発掘「VS東大全共闘」#5「三島さんは敗退してしまった人」
「 #三島由紀夫 対 #東大全共闘 」( #1969年 5月13日)、伝説の対決。50年の節目にフィルム原盤をはじめてデジタル・リマスターしました。ラディカルな作家とあまりに自由な若者たち。1時間16分のフィルムから、何本か連続短編にします。第5回は 「三島さんは敗退してしまった人」です。#全共闘 Cは何を根拠に...
宮川淳の全体を把握できるかはともかくとして、中原佑介の「コラージュふうな戦後美術の歩み 一九五六〜六七」を読んでから宮川の「アンフォルメル以降」を読むと、状況がかなり掴める https://dl.ndl.go.jp/pid/2516718/1/117
dl.ndl.go.jp



