パチンコやの前を通ったら「えー、二足歩行でご来店のお客様、本日は...」みたいなアナウンスが流れていて、たまには二足歩行ではない来客もあるってこと?

tenjuu99(天重誠二)
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読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など いろいろ雑につぶやいています SPACE NOBI というアートスペースやっています
- SPACE NOBI
野口五郎岳、なぜそんな歌手みたいな名前が山の名前なんだ?と思っていたけど、逆に野口五郎こそ山の名前から芸名をつけたらしい
あと、岡﨑の一部の読者と信じたいが、インターネットでマウンティングするやつがしばしばおって、そういうのがここで言う害毒。しかし、こういう害毒は大学とかでけっこう蔓延するものでもある。
自分の世代とかは、「モダニズムのハードコア」的なものはだいたい触れている人がおおくて、権威主義的な振る舞いとかしていたけど、解毒剤になったのはやっぱりフェミニズムだったとおもう。
彼らにとっては、グリーンバーグの父権的な振る舞いこそがモデルだったわけだけど、こういうのの害毒はけっこういまでも流れているなと思う。
「モダニズムのハードコア」って批評空間が全体としてそうだったけど、「敢えて」の反動的態度としてやっていたわけで、保守的で反動的だったし、グリーンバーグがそうしたように「敢えて」権威主義的な振る舞いをしたのは(読んでそうな人は)知っているもんだとおもっていたけど(だから「必読書100」なんていう反動的文書を出したんでしょ)、岡﨑も柄谷もグリーンバーグみたいに父権的な振る舞いをしていたのが忘れられている(無視されている?)っぽいの意味がわからない。
辰野登恵子のインタビュー1970〜80年代のアーティストの知見・意識・交流などが知れてかなりおもしろい。70年代にミニマリズム風(日本のコンセプチュアリズム)の作風をしていたのが、藤枝のアドヴァイス(アメリカではもうこういうのがあるんだ)で作風を変えていったというのもなかなかおもしろい。 https://apm.musabi.ac.jp/imsc/cp/menu/artist/tatsuno/interview.html
apm.musabi.ac.jp
Culture Power - 辰野登恵子
ちなみに、自分の知るかぎりでは、藤枝はグリーンバーグ的フォーマリズムを主張しているが、そのなかで還元主義的な理論を採用しているわけではない。彼が擁護した抽象絵画的な様式をもった作家がそもそも還元主義的ではないためというのもあるし、そもそもフランク・ステラのような「還元主義的な」作品が当時あたらしいものに思えたはずもない。日本で「還元主義的な」態度があったとすれば、1970年前後のコンセプチュアリズムはまさしくそうだったろう。そこに対応している言説は宮川敦だ。
「岡﨑乾二郎が「あかさかみつけ」から一貫して追求してきたのはフォーマリズム的な還元主義ではないモダニズムの別の可能性」ってさ、岡﨑は理論的言説に対して自分の作品を位置付けているって主張しているわけでしょ。そんなわけあるかよ。作家が作品において批判するのは理論なんかじゃなくて先行する作家および作品だよ。理論的言説に対して作品が存在するっていうんだったらそれはただのデモンストレーションなんだよ。
いやこういうまるで理論からでてきたかのような美術実践が当時あったっていうんならだせや、まじで。そういうのがないのに理論的言説だけあるなんてことはないんだよ。
藪前さんの物言い、歴史修正すぎてかなりムカついている。先日からかなりイライラしている。
自分の苛立ちはこういう言説に対するもの。「岡﨑がフォーマリストではない」は恣意的すぎる。そもそも、「モダニズムのハードコア」(1995)がでるまで、「還元主義的フォーマリズム」なるものが日本の言説上主流であったという主張がそうとう疑わしい。当時明確にグリーンバーグ的フォーマリズムを主張していたのは藤枝晃雄くらいなはずで、彼と対立的だったのが谷川渥でしょ。これらにしたって「主流」かっていうと怪しい。自分の推測では、「モダニズムのハードコア」を出したのは、藤枝のような雑なフォーマリズムが幅を利かせていたから、そこには主観的判断だけじゃない理論的背景があるんだということを言うために藤枝の元ネタを暴露したかったというのがあるとおもっている。いずれにせよ、岡﨑や「モダニズムのハードコア」の登場によって、フォーマリズム的言説は日本において「主流」であるかのように見えるようになったはずで、「還元主義的なフォーマリズム」言説がそもそも主流だったためしはない。実際問題として、こうした「還元主義的フォーマリズム」なるものに対応するような美術実践は存在していない。 https://x.com/ton0415/status/1949726780543189308
@on1000mark 謝られるとマジギレがマジっぽくなるからやめてほしいんですがそれはともかくとして、それは温マさんが勝手におかけんの本を読んで勝手に思ったことを実践としてやってみているって話ですよね。 自分がいま話してたのは、おかけんの作品とおかけんのテクストにほとんど関係がないという話で、一般化した話をしていないつもりだったんですが、そもそも岡﨑乾二郎は思想が制作に先行するようなタイプの作家ではないし、ついでに一般論を言えば制作に先行するような思想もないはずです。制作にたいして結果やプロセスを分析したりすることはあたりまえにみんなやっているわけで、そういう活動のなかに言語的分析がはいるのは当然のことだとおもいます。 ここで思想と呼んでいたものは、たとえば「造形は人間の認知を変える」とかそういう疑似哲学的命題みたいな主張です(現美の岡﨑展でこういう主張が為されているためにここで例示しています)。自分が言っているのは至極当然のこととして「造形は人間の認知を変える」という思想(思考・考えでもいい)から「造形」が生まれるわけがないということです。 他方で、岡﨑を巡る言説のあれこれは、岡﨑をまるで思想家かなにかとして扱っていて、岡﨑の思想の現れを作品に見出そうとするバカバカしい状況があります。自分の言っている文脈で「思想」という言葉に意味があるわけではなく、岡﨑を「思想家」だと思っている連中がいるということです。
作品制作におけるフィードバックループなんでみんなあるに決まってるだろ
フィードバックループと思想になんの関係があるわけ?
いやだから思想からはなにか生まれるわけじゃないんだって何度言わせれば(マジギレ)
おかけんの思想をまじでやったら絵描きじゃなくてオートチューン実況プレイヤーになるのかもしれない
@on1000mark いまからでも遅くない、やり直しましょう
@on1000mark おもしろくないですよ
まして、岡﨑のテクストと作品になんの関係が?いや仮に関係あるとしても、どうみたって自己弁護の試みでしかない(批評は除いておくが)。アーティストの作品にまつわる言説はほとんどそうなのだから、真に受ける理由がない。というより、このテクストと作品の分離こそが岡﨑という作家が重要だった理由の一部だったはずなのに、彼のテクストに幻惑される人が声でかくてうんざりする。
岡﨑の作品が、こういうプリミティヴな感情に貫かれていることはわかる。それって身体が動いてモノと触れ合う、そのなかである形が生まれるとか、そういうことで(ようするにそれはもの派が屁理屈いってたことをちゃんと実践してみせるわけだ)、それが大型作品とかになるとずいぶん理屈っぽくておもしろくなくなる。灰塚とかは別だけど。
絵が楽しいとかも、絵具がこういう色になるとかこういう輝きがでるとかそういう粘土みたいなものの楽しさであって、そこに深読みしたいやつはすればいいのかもしれんけど、そういう深読みは1mmもおもしろくない。
おかけんの思想とかいうものが仮にあるとして、それは絵が楽しいとか彫刻が楽しいとか粘土を切ったり貼ったりとかそういうことが楽しいとか、そういうものでしかなくて、そっから先なんて知らんでしょ。
思想と造形の切断の態度こそフォーマリズムと呼ばれるものであって、まずそのフォーマリズム的態度を認知できず、あまつさえその「裏」に岡﨑の思想なるものを読みなおそうとするのは、いろんな意味で倒錯している。
おかけんで思想形成するのは間違っているので青春やりなおしてください。
造形は人間の認知を作り変えるとか、そんなのどうでもいいよ。
おかけんフォロワーというか信者じみた人のことがほんとうに嫌いなんだけど、こういう倒錯が起きて正当に評価されるべきものがスルーされ評価されるべきでない態度が持ち上げられていることが嫌すぎる
おかけんのエセ哲学じみたところってべつにおもしろくもなんともないんだけど、それをやたらと重宝がる人間がいる。むしろ、おかけんが重要なのは、もの派のエセ哲学的態度から造形を切り離したことにあるわけでしょ。造形は造形としてそこにあるんだから、うさんくさい哲学なんか求めていない。そういう切断こそが彼を歴史に位置付けているわけで、彼の哲学なんてはっきりどうでもいいことだ。
安倍派、愚劣だからさっさと参政党にいけばいいじゃん


