tenjuu99(天重誠二)'s avatar

tenjuu99(天重誠二)

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読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など いろいろ雑につぶやいています SPACE NOBI というアートスペースやっています

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@kizehura@vivaldi.net · Reply to きぜふらさん

チカホのアイヌパネル展、札幌市は「国がガイドライン作ってくれないと」みたいな及び腰だけど市が、何なら道主導でもヘイトスピーチ規制すべきだよな、アレな人は「道民だけどアイヌ差別なんてみたことないです」みたいなこと言ってるけどまごうことなき差別がいま眼の前にあるっしょ・・・

まあ「道民だけどアイヌ差別なんてみたことないです」みたいな人も世代・地域でまあいるというのは理解するけど、それで「差別が無かった」なんて理解になるのはチョマテヨな話でありまして、静内出身の私はアイヌ差別なんか茶飯事で見まくってきましたけどねというのだけは何度でも言っていかなければ

『自分が見なかった・知らなかったことを存在しなかったんだろう」として処理することは歴史修正主義への第一歩

newsdig.tbs.co.jp/articles/-/2

newsdig.tbs.co.jp

“差別的”アイヌのパネル展に研究者批判「史実を曲解」涙し傷つくアイヌ民族を前に記者が主催者に対話を促すと…専門家は札幌市批判「主体性発揮し条例作るべき」 | TBS NEWS DIG (1ページ)

札幌駅前の地下歩行空間で開かれたアイヌ民族についてのパネル展。研究者などが差別的と批判していますが、どこが問題なのか、札幌市の対応は適切なのか。検証します。「アイヌの史実を学ぼう」と題されたパネル展… (1ページ)

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net

あるAI企業がSNSを分析して何かしら蓋然性の高い(と彼らは主張する)結論を述べるのは仕方ないとしても、新聞がその結論を見出しにして政治的な主張をするとなっては新聞がなんのためにあるのかわからない

@tesaguri@fedibird.com

【読売新聞】Sakana AIの独自システムがSNS上の「認知戦」を可視化
sakana.ai/narrative-intelligen

> 今回は、SNSの計110万件にのぼる膨大な投稿の分析から、複数の仮説が導き出されました。このうち、「高市首相の国会答弁後、中国が統一的な対日批判戦略を検討してから大規模な対日批判を開始した」という仮説について、読売新聞が日中双方の政府関係者らに取材し、専門家の意見も踏まえて検証・裏付けを行いました。

これだけでは他の仮説を棄却した根拠と最終的な結論の検証・裏付けとやらの具体的な内容が読み取れないし、複数の候補から恣意的に選んだのといまいち区別が付かないな

sakana.ai

Sakana AI

【読売新聞】Sakana AIの独自システムがSNS上の「認知戦」を可視化

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)

こういうの、クラウスが「メディウムの再発明」で「振り返ること」として論じているけど、ベンヤミンの引用からはじまる。「技術の進歩」みたいな観念がオールドメディアをオールドメディアとして見せているんだけど、「技術の進歩」は思考の与件としてあるわけではなくてむしろ批判の対象としてある。森脇の論考のなかでは、過去はすべてシミュレーションとして表出されるもので、技術の進歩は避けがたい必然だと言わんばかりで(そう断言するわけではないが)、たぶんそういうところにモヤりがある。

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)

先日、エヴァの30周年でアスカの小話が公開されたが、そこにはたしかにテレビ的なテクスチャの再現があった。これは「低解像度ノスタルジー」から来ていることは疑いようがないんだけど、こういうシミュレーショニズムはそもそもこの小話(27話)の内容と合致するように作られてもいる。他方で、もとのテレビ版のエヴァについては、リミテッドアニメーションという、いまの環境からすれば「低解像度」と呼ばれるような技法でできていたけど(というかこれは対比的に「フルアニメ」という言葉があったから当時からしても「低解像度」なのだけど)、ただ、当時の制作において当然ノスタルジックな志向でリミテッドを作っていたわけではなく、その技法が持ち得る美的な質を追求していたとおもう。こうしたことは、ファミコンやスーファミにおいても言える。

森脇氏が論じるのがノスタルジーの問題だから、こうしたことは関係ないといいえば無いが、たかだか20年前のことがこうも容易に「過去」として処理される手続きになんかモヤっとしている。

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)

いやていうかそもそも「低解像度」とは現在地点からの呼び方であって、当時においてそれはたんなる所与の条件としてその条件においてさまざまな創造性の発揮があり、というのがあるけど、「低解像度の美学」と呼ぶことの倒錯性になにかこうモヤっとする

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)

https://note.com/satodex/n/n65c3f1cd22c7

引用箇所のような論点にモヤっとする。低解像度の美学みたいなのがノスタルジーとして語られるのは、それはそうなんだけど、それは現在現れる低解像度の美学はノスタルジーでしかないが当時はべつに「かつてのメディア機器がハード面での制約によって受け入れていた低解像度」よりもっとポジティブな価値があったから、そこが切り捨てられることにたぶんモヤっとしている。

「平成レトロ」の流行の核心にあるのは、低解像度の美学である。かつてのメディア機器がハード面での制約によって受け入れていた低解像度、その質感をあえて借用して過去を演出すること。 それは高解像度化していくデジタル環境に対するある種の逃避ないし抵抗とも解釈できる。

note.com

低画質はいま、どのように美的か:意味、テクスチャ、ノスタルジー|森脇透青

驚いたな 手にしたビデオ そいつは ベータだろ? かけるデッキがないって 筋肉少女帯 - "その後 or 続き"(2007) HEISEI-VHS どんな画像もVHS風に加工できるアプリHEISEI-VHSのリリースが話題を呼んでいる。 平成初期のビデオ映像を黎明期のネットにアップして劣化した画像を再現する「HEISEI-VHS」を正式にリリースしました。 以前のβ版より使いやすくなってます。 簡単に共有できるので是非。#HEISEI_VHShttps://t.co/ouaO0tChOb pic.twitter.com/

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LLMの登場以前からそうなのでは...? https://linear.app/now/design-is-more-than-code

自分は結局コーディングエージェントをかなり探索的に使っていて、探索において問題の塗り替えや深化がおこなわれる。デザイン過程そのものがドリルダウン式になっているとおもうけど、これはLLMになってからも自分にとっては変わらなかった。それで、そうやっていないところは、まえからそうやっていない。

linear.app

Design is more than code - Linear

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net

React がある対象に適合するかどうかという判断からは React のような体系的な観念が生まれなかったのは確かだとおもいますね。どんなところでも最適なシステムを目指しているわけではなく、ソフトウェアとはある思想をもった塊を切り出そうとするものであると言ったほうがいい。

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UI = f(state) って React の有名な公式があるけど、あれに自分は意味を見出せないけど、それでも React 的世界観全体を駆動する表明にはあきらかになっている。純粋関数と状態の組み合わせがUIである、というような方向性に、React を書くプログラマーは駆動される。これは、その世界内での「良さ」の定義でもあるし、コードレビューで指摘されることもある(wayみたいなものとして)。

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net

詩を書くようにソフトウェアデザインすればいいんじゃないでしょうか。詩に外部基準があるわけではないし、ソフトウェアも自律的な表現であることが目指されてもよい。

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「絵画は鏡である」も「絵画は窓である」もどちらもメタファーだけど、これは「何かヴィジョンを映しだす平面」という類似性によって成り立っている。一方の鏡は、このヴィジョンはそれを見る私と関係づけられるもので、他方の窓はそれを通じて透かし見られる世界と関係する。[鏡, 私] と [絵画, 私]の関係が類比的であるときにメタファーとして成立するし、[窓, 外界] と [絵画, 外界] が類比的であればメタファーとして成立する。

ある詩を考えてみて、「絵画は鏡である」として、その絵画に映しだされるヴィジョンが私の何かを示唆するものであると読めるが、その同じ詩のなかでいきなり「その絵から透かし見られる風景は」みたいな話がでてくると混乱することになる(「あれ、こっちが映ってるんじゃないの??」みたいな)。シュルレアリズム的な世界観を考えたらまあそれはいいのだけど、デザインにもってくるようなものではあまりない。メタファーが成立するには一貫性が必要だと言いたいだけなんだけど、それは世界観がちゃんと保持される必要があるということでもある。

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)

ここで人間がメタファーを成立させるために働かせているのは詩的直観みたいなものだと思っていて、デザインの目的は美であると言ってしまうのは、たぶんこういうところにもある。詩のなかでメタファーが破綻していたらつまらないと感じるように、そもそも一貫性はメタファーが成立するための条件としてある。

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net

メタファーは任意に選択できるようななにかではなくて、世界Aが[a, b, c]みたいな関係であるとき、世界Bで[a', b',c']となっている場合にメタファーとして成立していて、「一貫している」と感じる、みたいなことだと思う。というか一貫性はメタファーとして成立するための条件というか。「ボタンを押す」ってボタンが単独でメタファーとして成立するんじゃなくて、[突起物, 押す] みたいな関係があり、これと類似した関係が構築される必要がある。[平板な色面, 押す]は、「押す」が類似するが、突起物ではないためメタファーにならない=一貫性がない。あるところでは突起物様のものが表現されているが押せず、あるところでは平面が押せるという状態には一貫性がない。

@pokarim@fedibird.com
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to pokarim

@pokarim 誤解を避けるために留保を置いておきたいのですが、狭く概念とコード命名の一致を求める、というわけではないです。

以下、長くなったのですが、わかりにくいかもしれません。

まず、「恣意的関係」について言えば、たぶん二つのものがあって、それらが自由な関係にある場合に恣意的であるとおもいます。たとえば信号機に赤と青の色がそれぞれ停止と進行を意味しますが、赤=進行/青=停止と最初に定義されていれば関係は逆で、ここに必然性がない=恣意的である。 ただし、これがたとえば大阪では青=停止で赤=進行だが東京では逆だ、となるとかなり困難がある。それゆえ、まずこの恣意性はコントロールされる必要がある。

このコントロールの手段として有用であると考えられるのが、「二つのものごとの関係を類比として扱う」ということだとおもいます。これはメタファーだとおもいます。メタファーは、あるものごとの関係を別のものごとの関係と比較して、構造的な類似性を見出す行為だとおもいます。

コンピュータ上のUIの「ボタンを押す」ってメタファーですが、ボタンでもなんでもないし押しているかどうかもわからないわけですが、突起物とそれを押す(?)という関係に還元してしまえば、構造的な類似を見いだせる。コンピュータ上のあるUIを「ボタン」と呼ぶのは恣意的ですが、それが突起物と押下という行為の関係として見たときに「ボタン」という類比が成立する。フラットデザインがそうしたように、ボタンはボタンでなくてもよかった(恣意的である)のですが、実際には、デザインが機能するためには、恣意性が消滅しているかのように見えていないといけないんじゃないかと思います。

こういう関係を考えると、「ユーザー側の言語」と「プログラミング上のコード」は、単純な一対一対応なわけではなくて、むしろ重要なのは関係が類似することだと思います。コード中にメタファーが埋め込まれることは、プログラマーが類比関係を把握することに役立つ。ユーザーの言語とコードはまったく恣意的な関係にあるわけですが、この恣意性を克服することがデザインの課題であり、それに有用なのはメタファーである。詳しく述べるとこういう感じかと思います。

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to pokarim

@pokarim 「ユーザーにとって何かがオブジェクト的である」というのがちょっとよくわからないです。「オブジェクト的」とOOPが同一の地平にないような気がします。自分が言いたいことは、どちらかといえばDDDの設計指針に近くて、ユビキタス言語(会話や実際の作業行為の領域で使われる言語)と、コードに表現される概念が一致する場合、「メタファーが一貫している」と思います。この場合、ユーザー領域にある言語とコード上にあらわれる言語(典型的にはクラスの命名とかですかね、クラスじゃなくても良いです)は、必然的関係は一切なくて恣意的な関係なんですが(つまりユーザーが想起する概念とコード上の命名が一致しなくてもユーザーは概念を想起できる)、この恣意的関係のコントロールを「メタファーの一貫性」と言っています。

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net

自分が一貫性の重要性を述べるのは、デザインの目的とは美だからだといいかえてもいいです。用具を作ることはデザインの目的ではない。

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net

なんか話が食い違っているけど、どこで食い違っているのかはよくわからない。 建材とコードを類比的に述べていなくて、アーキテクトと施工の分離というのが類比としてあり、これは疑うべくもないことだとおもう。表層と施工の分離というのはある意味一般的なパターンそのもので、作業の構造の分解から来ている。アーキテクト(建築家)という存在が独立してあるのは、他方にゼネコンみたいなものがあったりする。この作業行程の分離パターンはソフトウェア開発でもあきらかに踏襲されていて、アーキテクトは利用者のことを考えるUXデザイナーみたいなものだと考えればよく、ゼネコンはプログラマーにあたる。それを突き崩すのにDIYという作業パターンがある。

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)

デザインはコードと外形のうち外形のほうにある、ということではなく、コードと外形を貫くなにかとしてデザイン行為を考える必要がある、とおもっている。コードと外形の分離が、実装とデザインの分離そのもので、デザインという領域を外形性のなかに閉じこめているけど、その言論が建築にもあるし、ソフトウェアではとくに強い。

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net

OO的なUIにたいしてOOPで書くのが良いデザインだとは言ってないとおもいます 一貫したメタファーがあるべきだと言っていて、「OOっぽいUI」と「OOP」の関係はたんなる実装の話な気がする。

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)

アレグザンダーが「ランゲージ」という言葉を使うのは、建築物の作成者が理解可能である基準を設けるためであるし、それは建築物の使用者と同じ理解可能性が求められる。というか、理想的にはDIYであって、作られるものの細部にいたるまですべてが、使用者=設計者に対して理解可能になっているのが、おそらく一つの理想になっている。