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浅田らの登場は、当時の左翼学生には共産党および全共闘からの距離として受け取られていたようである。非政治的な態度として現れたわけではないし、たぶんその後の批評空間もそうした一連の流れのなかにある。ここで問われていたのが「主体」みたいな問題で、ようするに共産党的な主体というのは、資本関係のなかに巻き込まれた労働者としての自己が疎外されていることを発見をつうじて、革命的主体を確立していくことにあって、労働者としての自己認識はかなり強固に持つ必要がある。浦地の議論では、これを揺るがしたのが「日本の加害者性」という視点で、高度経済成長の結果、日本の発展は第三世界を犠牲にしたものではないのかという意識がでてくる。このあたりは、新左翼が華青闘告発などの差別問題・日帝批判によって自壊していったことの延長にあるのだろう。「他者」の視点から主体が揺るがされるのだが、浦地はそうした揺らぎをそのまま肯定しようとして浅田を参照している。このへんはフェミニズムにおけるアイデンティティの一枚岩性批判があったのと並行する現象であるように思う(ハラウェイの『サイボーグ宣言』が1985だ)。

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共産党による浦地への攻撃を読むと、「日本の加害者性」という論点は、「労働者」を免罪する形で済ませている。資本が加害側なのであって労働者は被害者側である。被害者として世界の労働者と連帯することができる。そうしたことしか言っていないわけだが、労働者としてのアイデンティティが日本でも第三世界でも共通だから「日本人」という属性は忘れて共闘できるのだというのは、まあ今は通用しないですよね(というかたぶん当時もべつに通用しなかったとおもうが)。 あと、この共産党による「労働者」免罪論は、「原爆被害者」と「戦争加担者」の区分と共通で、大衆無罪みたいな枠組みにはそうとう問題がある。