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批判された浦地実『〈ポストモダン〉と唯物論』(季刊 思想と現代2号、1985年)は以下から読める。 https://www.zenkokuyuiken.jp/wp-content/uploads/2024/06/0402.pdf (リンク元は「唯物論研究会」のアーカイブから https://www.zenkokuyuiken.jp/publication/past_journal/ )

浦地実は当時の東大大学院生で、たぶん先に批判された伊里一智と同一人物ではないかと思うが(「伊里一智」も「浦地実」ウラジーミル・イリイチ・レーニンの名からもじられている)、浅田彰が当時の学生にどう読まれていたかわかってかなり興味深い。浦地の文章はわかりにくいが...。

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浅田らの登場は、当時の左翼学生には共産党および全共闘からの距離として受け取られていたようである。非政治的な態度として現れたわけではないし、たぶんその後の批評空間もそうした一連の流れのなかにある。ここで問われていたのが「主体」みたいな問題で、ようするに共産党的な主体というのは、資本関係のなかに巻き込まれた労働者としての自己が疎外されていることを発見をつうじて、革命的主体を確立していくことにあって、労働者としての自己認識はかなり強固に持つ必要がある。浦地の議論では、これを揺るがしたのが「日本の加害者性」という視点で、高度経済成長の結果、日本の発展は第三世界を犠牲にしたものではないのかという意識がでてくる。このあたりは、新左翼が華青闘告発などの差別問題・日帝批判によって自壊していったことの延長にあるのだろう。「他者」の視点から主体が揺るがされるのだが、浦地はそうした揺らぎをそのまま肯定しようとして浅田を参照している。このへんはフェミニズムにおけるアイデンティティの一枚岩性批判があったのと並行する現象であるように思う(ハラウェイの『サイボーグ宣言』が1985だ)。