グリーンバーグが自己制約的なものをモダニズムの特徴とみなしたのとは逆の方向に行っているのは間違いない。技術的制約は常に意識されているんだけど、それを自己制限するものと見ずに積極的に違反していく。これは、それ自体ではポストモダンなんだけど、それが煮詰まったところから次のフェーズが始まる。それまでの試みは制度批判的な絵画の試みだと整理できるが、それだけだと煮詰まるというのは、世代的な経験かもしれない。

tenjuu99(天重誠二)
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というか、この類似性と差異の強調こそ郷くんの作品が抱える手法であるようにも思う。絵画のような、インスタレーションのような、巻物のような、装飾のような、かざぐるまのような、というなにかの様式を模倣しつつ差異を織り込んでいる。
郷くんはむかしから手法としてはインスタレーションに近いんだけど、意識としては支持体と絵の具の延長で、色を塗った石を床に配置したりとかはあきらかに拡張された絵画だった。絵の支持体になるとみなせばどこでも支持体にしてしまう。絵画が枠付けられたものと考えるのは制度的な思考だけど、任意の平面を支持体とみなすのは反制度的思考からきていたと思う。それが装飾的効果と似た結果をもたらすというのはじゅうぶんあり得ることだけど、似ているからこそ差異を強調したくはなる。
でっぱつ
俺だって職場近くに出没して蜂蜜舐めて去りてぇよ
@emim 大阪まで7時間、寝られるよう努力します
10年以上ぶりに夜行バスにのる 大丈夫なんだろうか
郷さんの風邪はまじでいいです...
@seki_takanao だからその「ように思える」というところが早計だという話ですよ。そこがまさに分析される必要があるわけで、それはその分析が差異を析出することだからなんだけど。その分析が欠けるとマティスもいましゅんも郷くんも全部同じということになる。アンブレラタームとして装飾という概念を利用するのはそれなりに政治的なというか一種のポジショントークのようなもので(アンブレラタームが一般的にそういう性格があるけど)、批評としてはもう一歩具体的なものと付き合うほうがいい。
@seki_takanao 追記: 「それによって室内を飾っているように見える」とか「nobiを花園へと変換することを目的とした部屋の装飾を実践しているようにみえる」と関くんが書くように、この「ように見える」というのがミソで、それが「装飾」と「装飾的効果との類似」と言っているものです。あくまで「...のように見える」のであって、それは装飾的効果を持つがそれ自体ではないから「類似」なのです。
@seki_takanao > テントのデザインが伝統的に反装飾
たとえばモンベルのこういう宣言とかね。
https://www.montbell.com/jp/ja/about/philosophy
Function is beauty 日本語では「機能美」。一切の無駄を省き、使いやすさや素材の特性を突き詰めたものにこそ美しさが宿ると考えています。
テントのデザインはかなりおもしろいよ。機能性がいかに重量とトレードオフ関係にあるかということが常に追求されていて、装飾の入り込む余地がない。じつはモダニズムの正統な継承者の一つ。
montbell.com
ものづくりの理念 | Montbell Japan
チームラボよ、どこへ行く? https://matsuuratomoya.com/blog/2025-05-29/where-you-go-teamlab/ チームラボ評を書きました。アブダビでの新作がKimchi and Chipsのパクリと批判されている件を見て、かつて身を置いた者として今書ける/書くべきことがあると思い、近年の訴訟の件なども含めこの数年考えていたことをまとめました。

matsuuratomoya.com
チームラボよ、どこへ行く?
この文章は私のチームラボに関する回顧録と現在のチームラボに対する私の意見を綴ったものだ。 筆を取ったきっかけとなったのは、チームラボのアブダビでの大規模常設展で発表された新作のムービングライト作品がメディアアートユニットであるKimchi and Chipsの作品に似ていると言う議論をInstagramで読んだことである。
@seki_takanao もうちょっと言うなら、装飾を住むための技術だとするなら、郷くんがやっているのは podcast でも言っているとおりキャンプみたいなもので、広げて畳むというものです。装飾が部屋を飾るのは、部屋があり装飾があるという関係だけど、そうではない。テントのデザインが伝統的に反装飾であることを思い起こしてもいい。 マティスに関しては、継承と言いかえても同じことで、関くんが設定した文脈上では差異が見えないと思います。差異はいろいろあって、たとえば半不透明な色紙であること、和紙を染めて使っていること、キワの処理などなど。マティスとの類似性は当然意識しつつ、そことの差異は強く意識されているもので、もっと論じられてもよいと思う。そのために、「装飾」と「装飾的効果との類似」とを区別したほうがよいと思っています。論じられるべきなのは「装飾的効果との類似」であって、「装飾」と断じるのは早計だとおもう。
関くんの論法だと、グリーンバーグが抑圧したのは「装飾」であって、それゆえマティスの仕事の性格が埋もれたわけだけど、この問題は現在においてはもっと別な方向に現れているはずで、当時の問題設定を引いてきてしまうと現在の作家について論じられるべきポイントがちょっとズレているように感じられる。たとえばだけど、関くんの論点では「装飾」との関連で言えば近いといっていい今井さん(今井俊介)とかもまったく同じ論法で評価できてしまう。それが概念装置として荒いなと感じたところです。
@seki_takanao 「モダンアートにおける装飾の抑圧」だと、グリーンバーグが装飾を放逐してフレームの問題を強調したことは「装飾」との関係において理解できる文脈であるものの、現在の作家の問題意識とちょっと距離があり、それをストレートに問題化している作家ではないだけにもうすこし詳しい分析が必要になるとは感じる。そうでないとマティスと同類の作家という整理になるのだが、むしろマティスは出発点ではありつつもそこからの逸脱がかなりあるわけで、その差異が埋没する文脈設定になっているとおもう。
@seki_takanao なのでこれで、「装飾」と「装飾的効果」と「装飾的効果との類似」が区別されてほしいけど、そこがあんまり区別されていないと思う。 https://hollo.tenjuu.net/@tenjuu99/0197177e-f2fe-7557-9043-dea4a8ddc114
hollo.tenjuu.net
郷くんの絵は、「装飾的効果と類似する」と言われたほうが説得的…
郷くんの絵は、「装飾的効果と類似する」と言われたほうが説得的かな。ただここには「装飾」と「装飾的効果」と「装飾的効果との類似」の区別が分析される必要がある。
郷くんの絵は、「装飾的効果と類似する」と言われたほうが説得的かな。ただここには「装飾」と「装飾的効果」と「装飾的効果との類似」の区別が分析される必要がある。
@seki_takanao というか「装飾」の概念が荒いとおもっているんですよね。郷くんの絵は、「部屋を飾る」ことが意図されたものではなくて、あのスペースを森・庭に変換することが意図されている、というのがある。だから、様式的に「装飾的特性がある」のであればわかるけど、端的に「装飾」ではない。関くんのテキストは、「装飾性」と「装飾」がどっちも使われているけど、ここが厳しく区別される必要があるとおもうが、そんなに区別されていない。たとえば、「モダン・アートの文脈において例外的に装飾を肯定したマティスが切り紙によって自身のアトリエを装飾したように」と書いてある箇所は、マティスは具体的な装飾をしたから装飾性も肯定したのだよね。もう一方で、「装飾のもたらす空間への拡張力」という記述は、装飾的なものがもつ特性(=装飾性、あるいは装飾の「効果」)のことであって、郷くんの絵がここで言う装飾との類似性があるのは否定しないです。
郷くんの絵は、「装飾的効果と類似する」と言われたほうが説得的かな。ただここには「装飾」と「装飾的効果」と「装飾的効果との類似」の区別が分析される必要がある。
マティスが安楽椅子のようなものを作りたいというのは比喩ではないところがあるよね。装飾としての絵画とは、道具的な存在として位置付けられている。
マティスの仕事は装飾の文脈に位置付けてよいのだけど(なぜなら実際にそれは室内を飾る目的でつくられたのだから)、郷くんのは美術そのものを目的とするという意味でも「装飾」ではない。
模様っぽさが現れるのは、植物や生き物が織り成すパターンに沿おうとした結果であって、模様として作っているわけではないとは言える
郷くんの絵が装飾と違うのは、具象要素が具象的に描かれているためと言っていい。素材の特徴によって抽象的/装飾的に見えなくはないということはあるんだけど、あくまで技術的制約の内部ではかなり具象性を指向している。
自分も装飾という文脈は余計だとおもったクチですね。
@miyarisayu 花とか造形要素が紋様化されているじゃない? それも装飾を特徴づける要素だと思うんだよ。あと、切り紙も装飾に使われる技法のひとつだし。
宮下さんと同じがどうかはわからないけど、近くで見る楽しさはぼくもわかるね。偶然できたように思われる滲みとか紙の質感とかがいいんですよ。でも、離れて見るとの同じように、視線が一点にとどまることなく、四散しちゃうんだよね。それは隣接する造形要素同士のパターンの連続と関わっていると思う。
@seki_takanao うーん、造形要素が視線を誘導して反復的なリズムを感じさせると、そこに異論はないけれど、それを装飾と呼ぶのがわからない。
あとは、わたしは<倒木>を見るとき、画面を一望するよりも、画面の前に立って、画面の中に包み込まれるように近くで見る方が好きで。そこでは造形要素に誘導されるというより、フラフラと視線をさまよわせて林の中で花を見るように見る楽しさがあるよ。
@miyarisayu 郷さんの作品には反復的なリズムがあると思うんだよ。そしてその画面構造には、視線が画面の奥へと向かうというよりは(もちろん奥へ向かう特性もあるんだけど)、水平方向へ横滑りしていく効果がある。たとえば、この作品では、まず画面中央の巨大な花に目がいくが、次の瞬間、隣接する左上の巨大な花へと視線が移動する。(というのも、サイズがほぼ同じで、茎の中央から上が中央の花と同じ角度で伸びているから。)さらに次の瞬間、その右上へと伸びる茎の下の部分の角度が同じであるために、画面左下に咲く紫と黄色の花弁で構成された花へと視線が向かう。その繰り返しが続く。その反復的なリズムを僕は装飾と言っている。そして、最終的には、蝶の存在に気づき、この絵と向かい合うように配置された別の絵に登場する蝶へと、視線を向かわせていく。
@seki_takanao わたしは冒頭の装飾のところはあまりぴんと来なかったよ。そこまでパターンじゃないし、絵の空間作ってるし。装飾って言葉なしでも展示空間への拡がりについては読めると思うんだよね。



