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tenjuu99(天重誠二)

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post

@seki_takanao 「モダンアートにおける装飾の抑圧」だと、グリーンバーグが装飾を放逐してフレームの問題を強調したことは「装飾」との関係において理解できる文脈であるものの、現在の作家の問題意識とちょっと距離があり、それをストレートに問題化している作家ではないだけにもうすこし詳しい分析が必要になるとは感じる。そうでないとマティスと同類の作家という整理になるのだが、むしろマティスは出発点ではありつつもそこからの逸脱がかなりあるわけで、その差異が埋没する文脈設定になっているとおもう。

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関貴尚

@seki_takanao@fedibird.com · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post

天重さん的には、郷さんの作品は、「部屋を飾る」ことを目的にしているのではなく、展示空間を森や庭のような別の場に変換しようとしている、その意味で、様式的に「装飾的特性」があると言うなら納得できるが、それをたんに「装飾」と呼ぶのは適切ではない、ということだと思うけど、僕は、「飾る」と「変換する」とを、そこまで断絶的に捉えていないんですよね。むしろ、飾るという行為そのものが、空間に意味を与え、場の性格を変容させる作用を含んでいるのではないか、と思っている。
装飾とは、空間変容の技術であって、ゆえに、僕らは装飾に包まれた空間にいると、メアリみたいに「生き生き」としてくるし、生の充実を感じるわけだ。その意味で「変換」は「装飾」と決して矛盾しない。

だから、正確な書き方をすれば、nobiを花園へと変換することを目的とした部屋の装飾を実践しているようにみえる、ということだと思う。そして、それはマティスの実践とも矛盾しない。たとえば《スイミング・プール》という切り紙絵は、もはやプールに行けなくなった老齢のマティスが、自宅のオテル・レジナをプールへと変換するために行った装飾だった。