“そりゃデモをするだけで平和がくるなんて甘い夢など見ちゃいねえさ
でもよオー 何度でも何度でもおいらに言ってくれよ
世界が破滅するなんて嘘だろ
嘘だろ”
RCサクセションの"明日なき世界"
https://song.link/jp/i/1502668974

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net
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読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など いろいろ雑につぶやいています SPACE NOBI というアートスペースやっています
“そりゃデモをするだけで平和がくるなんて甘い夢など見ちゃいねえさ
でもよオー 何度でも何度でもおいらに言ってくれよ
世界が破滅するなんて嘘だろ
嘘だろ”
RCサクセションの"明日なき世界"
https://song.link/jp/i/1502668974
"毎日矛盾したことを言うべきでない" 当たり前すぎるのにめっちゃ笑ってしまった。すごい狂人がいると、普通のことを言っただけですごくマトモな人に見えてすごい。
"毎日矛盾したことを言うべきでない"
それはそう
フランス・マクロン大統領「ホルムズ海峡の武力による開放は非現実的」 トランプ氏に対し「毎日矛盾したことを言うべきでない」 | TBS NEWS DIG (1ページ) https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/2575277?display=1

newsdig.tbs.co.jp
フランスのマクロン大統領はトランプ大統領が行った演説を受けて、「武力行使によるホルムズ海峡の開放は非現実的で、私たちは支持しない」と表明しました。フランス マクロン大統領「武力行使によってホルムズ海… (1ページ)
markdown じゃないけど、表現力が制限された視覚的な言語があるといいんだけどな。情報表現と遷移についての諸パターンが表現可能な言語があれば...。
ワイヤーフレーム作れますか?って聞いたらHTML+CSSでいきなり作りはじめて、まあなんかもう諦めてしまった。
プロトタイピングのための中間的な言語がほしいんだけど、予想以上に存在していない。というかたぶんデザインツールはその内部にそうした中間的言語をある程度持っているはずだとおもうけど、実際のところとしては適切な抽象化された領域がないと思われる。
生成AIにテキストで指示してデザインをつくらせる行為、作っては壊しというプロセスでやっていけば通常のデザインとおなじようになるはずなんだけど、そうはなりづらく、実装をともなった表現になって強いアンカーになりがち。
デザイナーの仕事って、どこか「意味や定義を広げる」とか「定義されてなかったものを定義する」というのが結構根底にはあると思っている。
ので、ビジュアルとか UI とか言語化というのも、自分の場合はどとかそういう「根底」につながる作業としてやってる感覚があって、
またそれは「発散」とか「逸脱」みたいな性質のある作業だと感じてきたんだけど、
「AI と言葉で対話する」という作業は、そういう「発散」とか「逸脱」という性質の作業になりづらくて(これはあくまで自分の場合はそう、という話だけど)、
むしろ逆に「一般的な言葉の定義」みたいなものに収束しがちだったり(つまりすごく一般化された無難な方向ばかりにたどり着きがち)、未定義の概念を考えようとするときの足場みたいなもの(それがフィジカルな感覚なのかもしれないとも思う)をAIとうまく共有できるという感覚を自分がもてていない、というのも、やりづらさを感じている部分なんだと思う 
DESIGN.md とかによって、より期待に近いものを機械に吐き出させることはしやすくなるんだろうし、完全に記述しなくてもなんかよしなにやってくれるという LLM の特性からすれば、そもそも完全に記述するというところまでは必要ないのかもしれないけど、少なくとも「今までよりもうちょっとデザインついても明示して AI なりを意図通り動かす」というアプローチではあり、「デザインを言葉で記述する」ということに向かっていく話ではある。
プロンプトからのAIと "対話" しながら進めるという大きな流れは変わってないなかで、「デザインを言葉で記述して作る」ということの歪さみたいなものはうっすらずっと感じている。
(プロンプトに画像やキャプチャを渡したりすることもできるから部分的には言語で表現せずにそれによって「わからせ」することもできるけど)
デザイナーとして会社とかチームのなかで働くと、AI 以前であっても同僚やディレクターや相手先の会社などに対して言葉でデザインについて説明することはたくさんあるし、むしろデザイナーこそ「デザインについて話す仕事」と感じるくらいその頻度も重要性も高いことは、自分も身をもって感じてはいるんだけど、
1. 「何を作るか、作りたいか」の言語化(自分or 誰かとの合意のため)
2. 作ったものに対する言語化(なぜこうなっているか、の合意のため)
という2つの大きな言語化工程の間には、すくなくとも自分には言語で記述しきれない話や出来事があると思っていて、自分はそこにある種の自分という人間の言語化し得ないなにかがあるとうっすら感じ続けながら仕事してきたような感覚もある。
デザインにおいても言語化というのはめちゃめちゃ大事だというのはほんとに痛感してるけど、LLM みたいなものをプロンプトからコントロールしてすべてが叶うようになる、という世界観の裏には、「言語化されうるものこそが本質」(それ以外が仮にあってもそれは人間が関与したり考えなくても、LLM というある種の新しい「世界」が勝手に実現してくれるのである」という雰囲気をどこか感じていて、それはちょっと危険というか「言葉」を信用しすぎているような気がしてる。
言葉って、もうちょっと存在自体が曖昧で、なにかの実在イメージを写像として記述しているだけなんじゃないのかなあということをもやもや考えてる
ネトウヨの娘がインターナショナルスクールで南京大虐殺について知り「日本人として見られることが恥ずかしい」と父ネトウヨに言ったら、父ネトウヨと母ネトウヨは、当時の日本には虐殺する合理的なメリットがないとか、中国のプロパガンダの方針とかについて力説したらしい。娘がどうなったかは知らないけど、同情を禁じえない。ますます日本人であることを恥じてしまいそうである。
「貴重な収蔵品を捨てるとは何事か!」 博物館の資料“廃棄”問題に怒り心頭な人たちに欠けている視点…学芸員が明かす、2000年以降に収蔵の依頼が急増した理由 https://www.dailyshincho.jp/article/2026/03300500/ #デイリー新潮

dailyshincho.jp
ここ最近、SNSを騒がせているのが、「博物館が収蔵する資料の廃棄」に関する議論である。…
この人より、この人が引用している人のほうが筋通ったこと言ってるとおもうかな。というかただの理想論でしかないというか。いや、管理コストもかからない無限の資料館あるといいよね。
文部科学省の「廃棄の検討」に条件反射的に反応するのもわからないではないのだけど、資料の廃棄はただの現実というか、廃棄の基準の明確化とは何を収集するべきかの明確化で、現代の価値観の反映だといえばそりゃそうなんだけど、そういうものでしかありえないとおもう。
アーカイブって情報のまとまりの単位を構築することで、収集の方針を決定することは同時に何を残さないかを決定することになっている。国立の公文書館と地方図書館で同じ基準で収集するわけがないし、私的アーカイブ施設であればなおさらそう。美術館なんかだと美術作品を中心に収集している。それ自体が強くデザインされた行為であるとはもっと知られてもよい気はする。
これ間違っているとは思わないけど、アーキビストの仕事って実務的には何を捨てるかを選択することそのものだよな。あらゆるものが未来から見たときの一次資料になるけれど、1分の1地図は地図として役に立たないのとおなじで、アーカイブはそもそもデザインされ選択された情報を残す作業でしかありえない。この行為の吟味として、現代の価値判断を留保することがたえず必要になるのは疑いないけれど、アーカイブは何を残して何を捨てるかの判断そのものであるとは、知り合いのアーキビストが述べていたことだった。
https://x.com/quadrumviro/status/2039526520142881238
「廃棄基準を作れ」という主張は、廃棄の出口だけを議論しているように見えて、実際には収蔵の入口にも同じ現代的価値判断を持ち込むことになる。廃棄基準が生まれた瞬間、その裏返しとして「収蔵に値しないもの」の基準が実質的に成立する。
博物館学が本当に教えることは「現代の価値判断を留保せよ」だ。
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/venice-biennale-in-minor-keys-letter-news-202604
また他国の国別パビリオンを巡る混乱も表面化している。南アフリカは当初、ガブリエル・ゴリアスを代表作家に選出していたが、2023年にイスラエルの空爆で命を落としたパレスチナの詩人ヒバ・アブ・ナダへの追悼を含む作品内容が「極めて分断を招く」とし、同作家の代表選出を撤回。パビリオンは空のままとなる見通しだ。なお、ゴリアスの作品はビエンナーレ公式外の近隣会場で展示されることが決定している。

tokyoartbeat.com
ビエンナーレの決断が、急逝した芸術監督コヨ・クオのヴィジョンに反するものだとして抗議。アメリカ・ロシア・イスラエルら「戦争犯罪を行う現政権」の参加にも疑問
https://www.otafinearts.com/ja/news/599-yoshiko-shimada-bubu-de-la-madeleine-612026/ 日本語訳あった。ていうかオオタファインアートはずっとこういう方向でやっててすごいな。

otafinearts.com
嶋田美子とブブ・ド・ラ・マドレーヌは、「第61回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展2026のアーティストおよびキュレーターからの緊急呼びかけ」書に署名しました。 呼びかけ書の全文は以下のとおりです。 --- 私たちは、コヨ・クオ氏によって第61回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展に招待されたアーティストおよびキュレーターです。世界中の多様な地域で育ち、活動する文化従事者として、また一人の人間として、私たちは、パレスチナ、スーダン、ミャンマーにおけるジェノサイドや民族浄化、さらにはカメルーン、コンゴ、キューバ、イラン、カシミール、レバノン、モザンビーク、ウクライナ、ベネズエラ、そして数え切れないほどの他の地域で横行する暴力、占領、戦争など、増大する体系的な抑圧、不平等、存在の抹消にさらされているすべての人々への連帯を表明します。これが私たちが生き、創作活動をする世界であり、第61回ビエンナーレが受容されるより大きな文脈なのです。 私たちは作品を通じて、反人種差別的な政治と人権を掲げる積極的な脱植民地化の実践に深くコミットしています。文化や知の領域における弾圧、検閲、監視の強化に対し、私たちは抵抗の声を上げます。 具体的には、ヴェネチア・ビエンナーレが例外的にイスラエル館をアルセナーレへ移転させるという決定に異議を唱えるために、私たちは団結しました。コヨ・クオが構想した国際展『In Minor Keys』に隣接するスペースにイスラエル館を配置することは、クオのキュレーションのビジョン、彼女のキュレーター・ステートメント、そして彼女がこれまでの全活動において明確に表明してきた「ラディカル・ソリダリティ」の原則を侵害し、真っ向から否定するものです。また、イスラエル・パビリオンに随伴する軍や警察の駐留により、暴力と恐怖の状況がもたらされることになるでしょう。これは、本展に参加するアーティストとして、私たちに直接関わる問題です。2026年3月13日、私たちはヴェネチア・ビエンナーレに対し、この決定を撤回するよう要請しました。 ビエンナーレは中立の立場を表明しましたが、私たちはこれに対し、戦争犯罪、残虐行為、ジェノサイドを積極的に行っている政府の参加を認めることは、中立ではないと主張します。国家が国際法や人権を著しく侵害した場合、制裁が加えられることで初めて国家間の共同体は成立し得ます。世界最大かつ最も注目を集める芸術イベントとして、ヴェネチア・ビエンナーレの立場は多大な影響力を及ぼします。展覧会が私たちの懸念のすべてに応えることは無理かもしれませんが、引くべき倫理的な一線は確実にあり、正常化してはならない行為も存在します。 国連の独立国際調査委員会は、イスラエルがガザ地区のパレスチナ人に対してジェノサイドを行ったと認定しており、同様に国際ジェノサイド研究者協会(IAGS)、ヒューマン・ライツ・ウォッチ、そしてイスラエルの主要な人権団体であるベツェレム(B’Tselem)やイスラエル人権医師団(Physicians for Human Rights, Israel)による複数の分析・評価でも認定されています。イスラエル政府による虐殺行為は、構造的かつ体系的なアパルトヘイト体制下での残虐な攻撃、殺害、土地の違法な併合同様に、十分に立証されています。2024年11月21日に国際刑事裁判所(ICC)がイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相に対して発付した逮捕状は、現在も有効です。こうした犯罪が継続している中で、ヴェネチア・ビエンナーレがイスラエル館を受け入れることは、到底容認できません。 国連はまた、他国による直接的な加担についても報告しています 。(*1) 「ガザで現在進行中のジェノサイドは、長年にわたるイスラエルの国際法上の組織的違反を容認してきた影響力ある第三国の加担によって支えられている集団的犯罪である。パレスチナ人を非人間化する植民地主義的な文脈で語られ生中継される残虐行為は、第三国による直接的な支援、物的援助、外交的保護、そして場合によっては積極的な関与を通じて助長されてきた。」 ヴェネチア・ビエンナーレは過去において、一方的な軍事侵略やアパルトヘイト体制を理由に、各国パビリオンを排除する決定を下してきました。特定の排除措置(1968年から1993年の南アフリカ、2022年から2024年のロシア)は国際的な制裁に基づいて行われましたが、状況がそれを必要とする際には他の立場もとってきました。特に1974年には、ビエンナーレはチリ国民との連帯を表明し、すべての国別パビリオンを閉鎖するとともに、その年の展覧会を『チリに自由を:民主的で反ファシストな文化のために』と改称しました ヴェネチア・ビエンナーレは、2022年にロシアの公式参加を排除したことで、説得力のある先例を打ち立てました 。(*2) 「ロシアの現政権に反対する人々のために、ヴェネチア・ビエンナーレには常に場が用意されている。[…] この状況が続く限り、ヴェネチア・ビエンナーレは、[…] そのような甚大な侵略行為を実行または支持した者たちとのいかなる形態の協力も拒否し、したがって、ロシア政府と何らかの形で結びついた公式代表団、機関、または個人の、いかなるイベントへの参加も認めない。」 我々は、これらの原則が今日においても有効であり、イスラエル、ロシア、そして米国にも適用されると確信しています。ヴェネチア・ビエンナーレへの参加が「正常化」されるべきではない一線があります。2022年と同様、現在の状況下で私たちは、ビエンナーレに対し、イスラエル、ロシア、そして米国を含む、戦争犯罪を犯している現政権からのいかなる公式代表団も排除することを求めます。 また、パレスチナ・パビリオンが依然として存在しないことは、イスラエル・パビリオンの受け入れに内在する不平等をさらに際立たせます 。(*3) 私たちは、ビエンナーレの会長および運営陣に対し、コヨ・クオが記したように「すべての生きとし生けるものの尊厳が守られる」場所となるよう、私たちと共に『ヴェネチア・ビエンナーレ2026』を築くことに加わるよう呼びかけます。 --- (*1) https://www.un.org/unispal/document/special-rapporteur-report-gaza-genocide-a-collective-crime- 2025年10月20日/ (*2) https://www.labiennale.org/en/news/la-biennale-di-venezia-ukrainian-pavilion-biennale-arte? (*3) 国連加盟国192カ国のうち、157カ国がパレスチナを主権国家として承認しており、イスラエルは163カ国から承認されている。
ヴェネツィアビエンナーレ参加のアーティスト・キュレーター有志による緊急要請、メイン展示の隣にイスラエル館があるのはおかしいという声明で、けっこうつっこんだ内容を述べている。2022年にロシアの参加を拒否したのとおなじような基準でもって、USAとイスラエルも参加すべきではない。 https://www.art-it.asia/top/admin_ed_news/286728/

art-it.asia
開幕を5月に控える第61回ヴェネツィア・ビエンナーレに参加するアーティストおよびキュレーター有志は、同月13日にヴェネツィア・ビエンナーレ事務局に対して、第61回展へのイスラエル館の公式参加許可を撤回するよう要請した旨を公に発表した。
Googleフォントの例文がいつのまにか世界人権宣言に変わってるんだけどこれいつからなんだろう https://fonts.google.com/noto/specimen/Noto+Serif+JP
fonts.google.com
Noto is a global font collection for writing in all modern and ancient languages. Noto Serif JP is a modulated (“serif”) design for the Japanese language and ot
高市であるか高市でないかは仮に問わないとしても、今日本がやばくないという認識なのがまじですごい。
「今高市さんじゃなかったら日本やばかったよな」みたいな投稿に「逆走しているおじいちゃんからみたら、ほかの車が逆走しているように見えている」ってコメントあった
高市がまじで自衛隊をホルムス海峡に送ろうとしていたらしいという記事、読めない。 https://www.sentaku.co.jp/articles/view/26121
自分で石油を手に入れろ(『マッドマックス』か)
クロネコヤマトのロゴ変更の話がけっこうおもしろかった。ロゴはさまざまな場面への耐久性がどれだけあるかで考えるべきという話。 https://x.com/halukik_0520/status/2036019158971015399?s=20
疲れていてきちんと書く余裕がないのだが、最近の読売新聞の「認知戦」についての報道はかなりやばい。やばいというか、危険。
中国共産党の関連機関によるSNS発信によって「反日」投稿が日本語圏で増えている、といったストーリーありきで(因果関係不明)、高市政権への批判的な投稿を「中国の対日批判に沿ったナラティブ」などとラベリングして集計している(ラベリングがあまりに雑)。
高市政権を批判する人たち=「中国の認知戦に影響されている人たち」といった、危険な解釈枠組みを下敷きにしている。
自国の政治を批判する人たちを「敵国を利する内なる敵」として扱うのは、ファシズムの兆候。
ジャーのコメントがけっこう掲載されている https://casabrutus.com/categories/art/483374
「日本がどれだけアメリカに依存しているのかを知って理解できないと思ったし、なぜアメリカを突っぱねて強いアイデンティティを持てないのかということに驚いた。沖縄の問題などは氷山の一角に過ぎない。最近になって日本の政治家もアメリカから独立して日本のことを考えるべきだと発言するようになったが、それには現在のトランプ大統領が日本に、そして世界に対して行なっていることへの反発も含まれているだろう。この作品では日の丸が光とともに床から立ち上がっている。それは敗戦からの復興の象徴であるかもしれないけれど、そこにアメリカの旗が映り込んでいる」
図録欲しかったと書いたけど、図録の内容はすべてハンドアウトに記載されているというのもすごい。というかこれはけっこう他も見習うべきで、こういうことをやらないでいると、ただのスペクタクルに落ちていくし、鑑賞じゃなくて享受になっていく。図録買ってようやくある展覧会の「鑑賞」が可能になるのなら、美術鑑賞は高すぎる。 https://www.operacity.jp/ag/exh294/j/publication.php

operacity.jp
東京オペラシティ アートギャラリー アルフレド・ジャー あなたと私、そして世界のすべての人たち 2026年1月21日[水]─ 3月29日[日]