tenjuu99(天重誠二)'s avatar
tenjuu99(天重誠二)

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post

こうしたことを考えて、抽象絵画の担い手に移民がおおかったことなどを想起した。岡本太郎がパリでアブストラクションの運動に身を投じたのは、ヨーロッパの文化的背景を切り捨てて絵画と向き合うことができるためだったし、ロシア人のカンディンスキーがモネの倒立した絵を見て抽象に至ったのも象徴的なことだ。絵を歴史的な文脈から解放することが、抽象の要請にあったわけで、それはヨーロッパ中心主義なのではなく、ヨーロッパで周縁化されたアイデンティティが生みだしたものだ。マティスが抽象に行かずオリエンタリズムに向かったのも同様の理由で、彼はヨーロッパ中心主義を強く内面化しているためだ。

tenjuu99(天重誠二)'s avatar
tenjuu99(天重誠二)

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post

彼の過剰なフォーマリズムというのは、たとえば画面のかなり細部に注目して、そこにあらわれる図像的なパターンについて分析する、とかそうしたこと。

こういう方法論は、たとえばパノフスキーが考えたイコノロジーと比較してみることができる。イコノロジーではまず絵画(など)で観察された事実から出発するが、視覚的観察だけでは、首を斬られた男性の図像がユーディットなのかサロメなのか確定できない。それを確定するのは、類型的な図像の歴史的発展を考慮することになるわけで、文化的背景を考察することによって確定することになる。フォーマリズムは、まさにこうした歴史性を切り離して、そこにある絵そのもの・視覚現象から離れない。それは、ある文化の継承者「ではない」からこそ必要となる操作だ。この点において、イコノロジーとフォーマリズムは対立している。