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移民二世の美術関係の人と話しをして、その人は平倉圭みたいな過剰フォーマリズム的なことをやっている人なんだけど、そうした過剰フォーマリズムが本人の移民二世と関係あるという話を聞いて、なるほどとなった。

一般的に、美術を理解するにあたってどうしてもコンテクストの理解が必要になり、たとえば日本美術の場合でも日本の美術の歴史を知っている必要がある。おそらく、彼は、ある時期にアイデンティティポリティクスの問いの前に立たされ、日本人として振る舞うのか、台湾人として振る舞うのか思考した結果、どちらでもないものとしての振る舞いを志向し、文脈に依存しない美術理解の方式が必要となり、それがある種のフォーマリズムだった。それは歴史的経緯を立ち切ることができるから、民族的アイデンティティを問う必要がない。

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こうしたことを考えて、抽象絵画の担い手に移民がおおかったことなどを想起した。岡本太郎がパリでアブストラクションの運動に身を投じたのは、ヨーロッパの文化的背景を切り捨てて絵画と向き合うことができるためだったし、ロシア人のカンディンスキーがモネの倒立した絵を見て抽象に至ったのも象徴的なことだ。絵を歴史的な文脈から解放することが、抽象の要請にあったわけで、それはヨーロッパ中心主義なのではなく、ヨーロッパで周縁化されたアイデンティティが生みだしたものだ。マティスが抽象に行かずオリエンタリズムに向かったのも同様の理由で、彼はヨーロッパ中心主義を強く内面化しているためだ。