国書刊行会が《図録代わりにどうぞ》とうそぶく、これが『改訂版 戦争と美術 1937-1945』か…
https://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336061164/

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戦争と美術 1937-1945|国書刊行会
戦争と美術 1937-1945 美術は戦争をどう描いたか。アジア太平洋戦争下で制作された戦争美術の代表作177点をカラー掲載し計258点を集大成。詳細な解説・論考・資料・年譜付。改訂にあたり藤田嗣治作品を新収録。

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読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など いろいろ雑につぶやいています SPACE NOBI というアートスペースやっています
国書刊行会が《図録代わりにどうぞ》とうそぶく、これが『改訂版 戦争と美術 1937-1945』か…
https://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336061164/

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戦争と美術 1937-1945 美術は戦争をどう描いたか。アジア太平洋戦争下で制作された戦争美術の代表作177点をカラー掲載し計258点を集大成。詳細な解説・論考・資料・年譜付。改訂にあたり藤田嗣治作品を新収録。
東かがわ国際芸術祭とかいう怪異すごすぎる
「観光」を通して見えてくる帝国日本の「満洲国」支配の様相と「まなざしの交錯」~高媛『帝国と観光:「満洲」ツーリズムの近代』(岩波書店)
https://note.com/meuniere2008/n/n89a9435d6f91?sub_rt=share_pw

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2025年3月刊 今春の刊行以来ずっと気になっていた本著をようやく読んだ。これは予想と評判通りの素晴らしい研究成果だった。著者の高媛(Gao Yuan)氏は1972年中国北京市生まれで、吉林大学日本語学部卒業後1995年に来日~東京大学大学院人文社会系研究科博士課程~ハーバード大学ライシャワー日本研究所客員研究員~東大大学院情報学環客員教授などを経て、現在は駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授。専門は歴史社会学・観光社会学。 この著作は著者の2005年博士論文をベースに、その後執筆した各種学術論文などを加味して大幅に再構成されたもの。著者は長年に亘りかつて帝国日本が中国
高階の弟子に田中正之さんとか林道郎がいて、このへんが90年代から2000年代にアメリカフォーマリズムの伝導者をやっていたわけで、批評空間派よりこっちの系譜が問題化されるべきだとおもう。
知らんかった
東京国立近代美術館の「記録をひらく 記憶をつむぐ」展のキャプションはPDF公開されてておおよその展示の意図を掴むことができる
https://www.momat.go.jp/wp-content/uploads/2025/08/caption-Opening-Documents-Weaving-Memories.pdf
『日本近代美術史論』で最初に高橋由一に驚いてみせるわけだが、それにしてもヴァルールの欠如と空気の欠如を由一の絵に見いだして、西洋美術にはこんな感性はないという。褒めているようにみえても、高階は西洋に対する欠如として日本を扱う。近代のなり損ねみたいな、まさに戦後日本という感じの論点なんだ。
高階秀爾批判、誰かまじめにやったほうがいいと思うけど、たぶんいままで行われていないんだよな。
日本におけるフォーマリズムの「輸入」は藤枝とか批評空間のグリーンバーグとかだけじゃなくて、それより前に高階秀爾があるわけよね。この人が美術史を固定的に展開するものとして、近代美術とは造形そのものを目的化したものだとした。日本における「非政治的なフォーマリズム」と言われるものの元凶は高階秀爾だと思う。高品による岡倉覚三についての記述とかも、脱政治的な記述をいくつも指摘できる。
鉄斎とセザンヌの比較はおもしろいんだけど(これは高階がやっていることではない)、それを高階は既成の美術史の枠組み(というか一般的な西洋美術史の枠組みそのもの)と比較して、ヨーロッパ美術にたいする欠損として処理する。そういうのがどうしようもなさすぎる。
富岡鉄斎の研究者が、鉄斎をセザンヌに比しつつ、鉄斎は後継者を持たなかったが故に日本の近代美術は細くなったとする説を紹介しつつ、高階は鉄斎は画家であることと儒学者であることが一体であったがセザンヌは純粋な画家だったとする。
"そして、その点にこそ、鉄斎が後継者を持たなかった最大の理由がある。なぜなら、近代美術は、就中近代絵画は、西欧のルネッサンスが作り上げた総合的な人文主義的世界から造形性のみを独立させたところにはじめて成立するものだからである。"
自律的造形性こそが近代美術だという、こういう「教科書」っぽい説を流布させたのは高階秀爾なんだろうけど、いやーどっからどう考えても近代美術の出発点にあるのは近代社会の表現ですよ。クールベ、マネ、印象派から後期印象派まで、近代化した社会、その近代化のなかの「私」みたいなものが主題であって、それはセザンヌにしたって例外ではない。自律的な造形性こそが美術のコアだとしはじめたのは、20世紀にはいってからで、マティスやキュビスムの登場がそれでしょ。セザンヌが20世紀芸術へのちょうど橋渡し役になっているのは認めるが。
つづけて高階秀爾の『日本近代美術史論』も読んでいて、ちょっと見直したところはあるけど、やはりこの人の本はおもしろくない。なんだろうな、このおもしろくなさは。
近代画説、1冊をのぞいて全巻揃いで売ってるのめちゃくちゃ心惹かれる...
土方定一『日本の近代美術』読了。おもしろくて一気に読んでしまった。通史的な語りだけどかなり個人的な印象・批評も含めていて、読ませる文章だった。そのときどきの芸術家たちが置かれていた問題意識を的確に抉りだしつつ、これだけコンパクトな通史を描きだすのはすごい。
本書を読むと、森達也に代表されるような「普通の市民が集団心理によって豹変して虐殺に荷担した」というイメージの問題点もはっきりする。その理屈には、具体的な国家や社会が不在なのだ。
いくら差別意識が蔓延していようと、大災害によって極限の心理状態にあろうと、やはり人を殺すのは並大抵のことではない。それも大量に殺害するためには、国家による人員的、物理的、心理的な"後押し"が不可欠であった。
これはハンナアーレントの需要のされ方にも感じるのだけど、具体的な背景を取り除いて普遍的な人間心理の問題(人間は誰もが虐殺に荷担しうる)に注目する手法が好まれるのは、個々人の心構えで戦争や虐殺を予防できるように感じさせるからではないか。
しかし、現実の虐殺や戦争はどう考えても国家と切り離せないわけで、国家を変えなければ世界は変えられない。いつのまにか巻き込まれないよう"心構え"として重要なのは、動員されないこと、動員が動員であると気づくことだろうが、そのために有効なのは内省よりも政治行動や学習だろう。
「自分も差別する側に回ってしまうかも」と内省することはまあ重要だが、「差別する」ことと「虐殺する」ことには大きな距離がある。そこを混同して語るのは、暴力の物理的な側面を軽く考えすぎだと感じる。
藤野裕子『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代』読了
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/08/102605.html
あまりにカッコいい書名なので(?)手に取ったのだが、内容はもっとすごかった。
明治初期から関東大震災までの時期に起きた、民衆による大規模な暴力行動を軸として日本の近代史を解説するもの。一見「反権力」的に見える事件と、関東大震災時の朝鮮人虐殺をあえて分けずに「民衆暴力」と呼ぶことによって、反権力的に見える暴力行為にも実際は多様なメンバーが多様な動機で参加していたことを解き明かしているのが特徴。
朝鮮人虐殺については二章に渡って取り上げ、背景となった社会状況と、加害者たちが暴力行為に至る心理的な背景を解説している。
在郷軍人会や青年団が国家に認められた民間暴力組織として地域に根差していた点、三一運動以降、朝鮮人民の反撃に対する潜在的な"恐怖"が統治機構側に広がっていた点、自警団に参加した男たちのマチズモ、義侠心文化、そして暴力行為を行うことによって残虐さが加熱していく点など、目から鱗が500枚は落ちる内容。これは必読書ですね。

chuko.co.jp
現代の日本で、暴動を目撃する機会はまずないだろう。では、かつてはどうだったのか。本書は、新政反対一揆、秩父事件、日比谷焼き打ち事件、関東大震災時の朝鮮人虐殺という四つの出来事を軸として、日本近代の一面を描く。権力の横暴に対する必死の抵抗か、それとも鬱屈を他者へぶつけた暴挙なのか。単純には捉えられない民衆暴力を通し、近代化以降の日本の軌跡とともに国家の権力や統治のあり方を照らし出す。
「繰り返さぬ」ではなく「繰り返されぬことを願い」というのは、天皇が憲法の規定上政治的な主体性を持つことが許されぬ以上やむを得ない表現だと思うけど、原爆が自然災害か何かのように語られることの理由はこのへんにありそうではある。
すごく戦後日本という感じ
"過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い"
いや、そういうことなん??
1935年の「現代美術」という雑誌に日本画家の荒木十畝が「日本画の独立」という文章を寄せていて、最後笑ってしまった
国家的な立場からも日本は今や国際連盟を脱退し、ワシントン条約を破棄し、完全な孤立状態である。是は絵画の上に於いても確かに何か関係ある筈である。日本画も混淆した現在の空気から速かに颯爽と独立しなければならない。
日本画については、戦争加担の議論があまりされていないどころか、そもそも議論の枠組みがほとんど用意されていないように感じる。
個別作家研究とかはあっても、日本画となると基盤となる議論がぱっと思いあたらないんだよな。古田の論は様式変遷史で、必要なのはわかるが平板であまり工夫がない。
近代の日本画をトータルに論じる本、古田亮以外ないのかな
あの炎上はアホらしいなとおもうけど、「中央」や「メディア」に対する反感がベースにあるんだろうなと思う。そういう意味でやっぱり発言者の肩書が炎上の原因にあると思っている。
「美術は中央にある」とおもわなければ上京しなかった
紙媒体も含めて美術手帖という雑誌が中央集権的な美術というシステムを前提としたメディアで、だからこそあの発言になっているんだよなぁ。べつに炎上しなくてもいいじゃないとは思うんだけど、それも中央・地方の図式がインターネットの登場で変化しつつあるからの炎上なのかもという気はする。自分が地方にいたとき、美術は美術手帖のなかにあるもんくらいに思っていたしね。
耳が痛いぜ。
耳が痛いぜ。