@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)

「仏典の翻訳の誤訳」を「誤訳」としらずに時間論として解釈し、それを哲学的営みとする。それ自体はまあいいとして、これが「誤訳である」と判明したとき、当の「時間論」はどこの時空間に位置付けられるのか。パーリ語が原典であるなら翻訳前のその文献が書かれた時代の「時間論」であるが、誤訳であるのなら訳者の時代の「時間論」解釈が持ち込まれている。この時間論が、無前提・無時間にあるわけがないのだが、永井に影響を受けた一部の人間たちが「時間論は独立にある」と主張してしまって、そうした読みを可能にすることに「哲学的センス」の存在を仮定してしまう。 こうした態度は、通常は馬鹿にしておけばいいだけだとおもうけど、この態度はしばしばみかけるものでもあり、また、永井均のよくわからない影響圏というものがあって、それは考えておくべきことだとは思っている。

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@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)

https://x.com/hitoshinagai1/status/2094727084925178003 たとえば、こういう「それとは別に山口瑞鳳を時間論の一次文献として読む態度がある」のは「自明の真理」と述べているけど、通常誤訳を含んだテキストを「一次文献として読む」ということは、「誤訳を含んだテキスト」として扱うことは自明であって、誤訳を無視して哲学的読解をすることを意味しない。一次文献という言葉の使い方自体が不適切であるとしか思えないが、ここで哲学的読解だと彼らが考えるものは、文献を非歴史化する操作そのもので、およそ文献を読む態度とはいいがたい。

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永井均『完成版〈子ども〉のための哲学』驚愕発売中 (@hitoshinagai1) on X

「それとは別に山口瑞鳳を時間論の一次文献として読む態度がある」という点、たんに自明の真理であるとしか言いようがないと思われます。そうでないと、テキスト解釈として誤っている議論からは何も学べないことになってしまい、例えば(殆どの専門家がウィトゲンシュタイン解釈としては誤っていると見做している)クリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドクス』の議論なども、最初から無意味なものとなってしまって、あれから始まった「規則に従う」ことにかんするあの膨大な議論のすべてが、それゆえに価値のないものになってしまいますから。