@tenjuu99@hollo.tenjuu.net

これ、こうなんじゃないかとおもっているけど、三木は転向組だったはずで、それより前の治安維持法とかから一連の流れだよなぁ...。左派が弾圧しつつ懐柔されるというか。

いちおう wikipedia にはこういうことが書いてあった。

総力戦体制に対する抵抗と関与という両義的な態度は、同時代の転向知識人がかかえる二面性であるが、三木はその典型であった。すでに軍部と皇道右翼によってマルクス主義はもちろん、自由主義者もまた、自立的な社会的活躍の余地を奪われていた[54]。そのような政治的に非常に息苦しい状況にあって、総力戦体制の効率化、合理化は、一面では、体制派の主流に対するある種の批判的意見表明を可能にする最後の可能性と見えていた。三木は昭和研究会が大政翼賛会に取り込まれて解散に向かうことに対して最後まで抵抗をした[55][56]。しかし、昭和研究会は軍部や保守勢力によって敵視され、不本意にも解散を余儀なくされたため、やがてその流れは大政翼賛会のなかに取り込まれていく[57]。そのことにより、総力戦動員の合理性に託して、何らかの社会変革を遂行するという知識人の当初の期待は、単なる戦争協力へと変質していくことになる[58]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/三木清

ja.wikipedia.org

三木清 - Wikipedia

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)

近衛文麿による昭和研究会とかに三木清みたいな左翼が参加していたりもするから、伝来の日本中心主義的な東アジア観(近代以降東アジアは日本中心に再編される)みたいな右派的・ナショナリスティックな観念がまず先行的にあって、左派・中道を納得させるための方便として大東亜共栄圏・脱植民地主義・反西洋中心主義みたいな観念が政府に採用されてきていた、と見るほうが説得的な気はするな。

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