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このマティス展と逆の事例として想定しているのが、近美の「記録をひらく 記憶をつむぐ」展で、ここでは史料と解釈の関係は明示されていて、物語化をあえて拒んでいる。 https://hollo.tenjuu.net/@tenjuu99/0199162e-50db-7051-8b43-44d746aca0a9

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展覧会のキュレーションの手法として、ある作家を制作時期に沿って配列していって、読解可能な物語が成立していることがしばしばあるけど、それは当然無垢に配列していったらそうなるということではぜんぜんなく、未来から先取りして物語として再構成しているからそうなる。書いてしまえば言うまでもないことだけど、この物語化のなかでかなりの情報が捨てられることになり、かつ編年体的構成によって真実性のようなものが増す。物語性のある編年体構成は、自身の取捨選択という手口そのものを隠し、そこから「何が捨てられたか」を忘れさせてしまう。

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キュレーションの手付きが見えるかどうかは、史料と解釈の関係が明示的で、鑑賞者がその中に入っていろいろ考えることができるということにあるんじゃないかと思う。