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tenjuu99(天重誠二)

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自分はたとえば、荒川ナッシュ医が、エルズワース・ケリーの「スペクトラム」という作品を性的多様性の象徴として読み替えていくのは筋が良く見える。ケリーはゲイだったそうだけど、当時レインボーには現代のような象徴性はなく、むしろハードエッジ系のモダニズムの文脈でやっていたのは自明で、そこを現代のレインボーに読み替えていくのは鮮かだとおもった。それはモダニズムの男性中心主義への批評として機能する(エルズワース・ケリーの作品理解からゲイ性が排除されている)から鮮やかなのだけど、その読み/文脈の転換は現代の芸術の規範性からの解放でもある。

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ヒルマ・アフ・クリントのカタツムリをどう読むかは、文脈依存の問題なんだけど、アフ・クリントを巡る問題群に「抽象」を巡る図像解釈学の復活という文脈がもうひとつある。クィアに読むのであれば図像解釈学とはたぶん対立的な立場を取ったほうがよさそう。図像解釈学はあくまでアカデミックに確立された領域だけど、クィア・リーディングはむしろ(たぶん)批評的営みで、相性いいとおもえないし、それぞれで別な解釈が導かれるとおもう(というか図像解釈学は客観的にやる必要がある)。そのへんが混ざっているように感じる。