
tenjuu99(天重誠二)
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net
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読書、プログラミング、登山、ランニング、美術など いろいろ雑につぶやいています SPACE NOBI というアートスペースやっています
- SPACE NOBI
尼崎市、西尾市、あわら市で参政党がトップ当選。いままでのN党とかと比べるとメディアで目立つよりは地道に選挙運動やっているからなんだろうけど、だいぶやばい感じがする。
マレーシアが1,000艘の船をガザに出すって🔥🔥🔥
https://www.instagram.com/p/DK5S54xgD6R/?igsh=bmdjam42bnJqdnFk
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具体的な学者名を上げることもできるって言うんで聞いてみると加藤陽子の名前出してきたぞ
鏡だよなこれ
ChatGPTに「日本は太平洋戦争をしなければ植民地化されていた」って言ってみたら、最初は「主流の学説ではない」って否定されたけど、「学習している学説が古いのでは?」と指摘してみたらめちゃくちゃ迎合してきた。
世界、最悪すぎる
悪役令嬢百科を読んで読んだことがない悪役令嬢ものについての基礎知識を仕入れている(なぜ?)
ちなみに、ギャラリスト葵さんと参加作家の久松知子さんはお嬢様言葉で接客してくれました
遠藤の出発点にサイボーグ・フェミニズムがあると思うんだけど、サイボーグ・フェミニズムもアイデンティティポリティクスへの批評として登場してきたことは、補助線として考えてよさそうにおもう。
映像作品だけで完結していなくて、作品の外部で遠藤麻衣が「葵」を演じていて、他のアイデンティティを試みているということが重要。その一方で、映像のほうは、アートにおける血統主義(と結託した拝金主義)が語られ、葵は敗北して自殺するのだけど、レイラが登場して生まれ直す。映像はここで冒頭に戻り、葵の敗北から自殺の物語がループする。復讐は永遠に成功していない。映像中では、葵は血統主義に敗北し続けるのだけど、その外部では「遠藤麻衣」という生まれのアイデンティティに対して「葵」が演じられている。アイデンティティの固着性を撹乱することが遠藤の狙いとしてある。このへんがアイデンティティポリティクスへの揶揄として見える(むろん映像のパロディ的なトーンもそうした印象に寄与している)。
(いちおうアートマーケットにおけるアイデンティティポリティクスと限定していると書いておきます)
悪役令嬢もの詳しくないけど(同人誌は買いました)、アイデンティティポリティクスへの揶揄に見えるのは構造的なもので、作者の狙いとしてあるけど、説明がめんどくさいなこれ...
悪役令嬢を参照してるのなら、「アートは本当は生まれが問われる世界なのよ」はアイデンティティポリティクス言及じゃなくて、富裕層か否かを指しているよ。
あとは、クソ展開やクソ演技は「ウェブトゥーンを逆手に取るとこうできる」のサンプルかな。ウェブトゥーンもウェブ小説も、人力で生成AIみたいになっているジャンルだから、そういう構造の露呈のさせ方がうまく映えるというコンセプトだろう。
悪役令嬢ものプロットを生かしているのなら、逆境→承認されて成功や復讐、の流れをどう処理しているのかが問われるかな。
ギャラリスト葵がいるのでもう一回行ってきた。また見ても快作と言っていいな。クソ動画なのに見れちゃうのがすごい。
建築家が考えるモダニティ、理想のモダニティすぎてすごい
リビング・モダニティ展、ブルジョワの生活展みたいになっててびっくりした
『何とオーウェル的な世界か。イスラエルは国連憲章に違反しイランへの違法な攻撃を開始。差し迫ったイランの攻撃の兆候も核開発もないのにだ。西側は自衛権はイランではなくイスラエルにあると主張。違法な攻撃の被害者ではなく、侵略者の権利だ。
これが西側の「ルールに基づく国際秩序」なのだろう。』
https://x.com/mehdirhasan/status/1933532648493682766?s=61&t=eNW1E6xssDfg2IkioUVPyg
↓ について最近思うけど、たとえば親が気づいたらネトウヨ化していたみたいなのって一定存在することだけど、問題なのはそもそもの対話の不足だとおもっていて、それを「意見」として理性的な対話をしようとするのはけっこうご都合主義じゃないか。孤立こそ情報デバイスが人をグルーミングしようと付け入る隙間で、それは新興宗教やオレオレ詐欺があることとあんまり変わらない。
もし身近な人が差別的なことを言い出したとして、適切にその場で批判できる人は多くないだろうし、気まずくなったり関係が壊れてしまう可能性もあることを思えば、ついなぁなぁですませちゃった…ということも沢山あるだろう。 家族だろうと友人だろうと他人は他人なので、簡単に考えを変えることはできないし、究極的にはある人がどんな考えをもつかは自己責任である、という事実も自覚すべき(そう思わないと、追い詰められてしまう真面目な人も多そうなので)。 ただし、だからといって「分断を招くので、差別的な考えを厳しく批判するべきではない」と結論づけることは間違っていると思う。誰かが引き受けるべき「分断」もこの世にはある。
この宣伝動画もめっちゃウケる。内容的には「アートって本当は生まれが問われる世界なのよ」がアイデンティティポリティクスにたいする暗黙の言及なんだけど、それより「おいおい、晴れの日に泥を塗りに来たのか?」とかのクソ台詞がクソヘタ演技で述べられると笑ってしまう。クソ展開、クソ台詞、クソ演技がとにかくよくて、クソ動画からしか得られない滋味あふれる作品だった。生成AIつかった作品ではかなり快心の出来なんじゃないか。 https://www.instagram.com/reel/DKTHL2IqqkU/
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リマ・ハッサンのレピュブリック広場でスピーチ。無事でよかったとおもったけど、また次の船を用意しているというのがすごい。 https://x.com/inlaforet/status/1933263520692420777
もちろん非東京の人からすれば、東京駅周辺とかにギャラリーがあるとたいへんアクセスがよい、とかはある。
アートギャラリーって、客に対してはタダで見せてるという意識にギャラリー側はなりがちだとおもうんだけど(ほかの人がどうなのかしらないけど)、客側の主観的意識はぜんぜんそうではなく、交通費も時間もかけてその場所まで行っている。このコストについての主観的意識は、立地の良し悪しとはあまり関係がない気がする。一見辺境っぽくても、いろんな人にとってだいたいの場所は遠いのだから(心理的にも物理的にも)、場所自体が辺境っぽいかどうかはあまり関係がない。
家からある場所まででかけて行って帰ってくるという経験、わりと厚みのある経験だけど、よくないなと思うギャラリーとか展示は一歩入って全体がわかってしまう。そこで時間を過ごすことができないと、「出かけていった」という労苦のほうがデカくて不満に感じる。場所の大きさはあんまり関係なくて、小さくても複雑さを感じる空間はある。
アートギャラリーにとって場所の特徴って替えが利きづらいな。立地もそうだし空間の特徴も。アートギャラリーに限らないけど。






