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最近クラウスを読みなおして思ったことだけど、彼女はグリーンバーグを「本質主義」だと考えていた(「絵画の本質は平面である」という言い方をとる)けど、実際にはグリーンバーグは、まっしろなキャンバスでも絵画であると述べるのは構わないが、それが良い絵画であるかどうかは別であるとしている。グリーンバーグは、非芸術的外観をもてあそび「ただのもの」と区別がつかなくなるような作品とずっと向きあって、それが「ただのもの」であるのか、それとも優れた芸術であるかを測っていた。彼にとって芸術作品というのはそもそも論争的なテクストみたいなもので、優れた芸術作品は、「絵画の本質」として考えられたものをズラして見せ、再定義する。こうしたことが起きるのは感性という場においてで、だから判断は常に留保されなければならない。「絵画の本質」みたいなものを彼は保持したけど、常に留保としてであって、というかアーティストの活動によって動かされるべきゴールポストとしてあったというほうが正しいとおもう。 このへん、その弟子であるフリードとクラウスは、師匠を「本質主義」と見做して批判したけど、実際にフリードがやったのは、「ただのもの」と「芸術」のあいだにアプリオリな線を引き直したことで、グリーンバーグの留保を台無しにする作業だった。クラウスはここまで極端ではないにしても、芸術は暗にアプリオリなカテゴリとして通俗的事物と区別されている。実際のところ本質主義者だったのはフリードとクラウスだとおもう。

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