@seki_takanao これは君が批評家を自認するのであれば、もっと丁寧に考えたほうがいい気がするよ。 実際のシャーマンの発言もクラウスの文章も読んでいないのだけど、それを置いておいても、次のようなことはたぶん言えるはず。クラウスがもっと無関係なところから文脈を引っ張ってきてシャーマン解釈に当てるならともかく、クリンプやフォスターという身近な存在への回答とみなすのは、クラウスの世界の狭さのほうが目立ってしまって、インナーサークル言語を語りすぎているように見える。シャーマンの違和感はそういうことじゃない?クラウスにはいつもそういう狭さがつきまとっている(オクトーバー周辺でもっとも閉鎖的な書き手だとおもう)。 作品の読解は作者の意図から離れているという見解が肯定されるには、批評の公益性か、批評言語の私性のどちらかが語られる必要があるはずだとおもう。バルトは後者にふりきって、そのための理論整備までしたのが『明るい部屋』で、もはやここではテクスト=写真とは自己のみを刺しつらぬき、私にしか見えていないものを投影する場でしかない。バルトの批評言語は文学そのもので、その言語の支えを「私」に置いてしまった。ここまでやったら、バルトがどんな妄想を語ろうと、人はもう何も言えない。 そうではなく、批評が公論であるのなら、シャーマンには当然反論を述べる理由があるし、クラウスの言明はすくなくともシャーマンを含んだ「公」ではなかったのでは?と思う。また、公論が公論であるためには、健全な議論に開かれてあるべきであるけど、クラウスの態度はおうおうにしてそうは見えず、一方的な見解が多すぎると思う。彼女は、書き方こそ「論争的」に見えるけど、実際にはそうではなく、反論は閉じている(ユベルマンもマノヴィッチもクラウスに論争を仕掛けたけど無視をもって遇した)。 作品をクリンプやフォスターへの応答とみなすのは、作品の文脈を狭いところへ閉じこめていて危険だとおもったので、ちょっと書きました。
@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to 関貴尚
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@seki_takanao@fedibird.com · Reply to tenjuu99(天重誠二)
@tenjuu99 たまたまシャーマンのインタビューを読んだからクラウスについて書いちゃったけど、ぼくが言いたかったのは、作家が抱えている問題と、批評家が作品から受け取る問題は違うということですね。
どういうことかというと、もし「問題」というものが、それを最初に抱えた作家個人の所有物ではなくて、作品の側にあるのだとしたら、その問題を解く権利も、作者という特定の個人に独占されるものではなくなるからです。作品が抱える問題は、作品を見る誰にとっても開かれた問題になる。ゆえに、その問題を他人と共有して、一緒に考えたり議論したりすることができるわけです。
で、なんで「作家の意図」と「作品の意図」を分けて考えることが重要だと思うのか、現代の問題に引き付きつけていうと、たとえばアイデンティティ・ポリティクスをテーマにした作品について語るとき、しばしば当事者の傷がそのまま作品の意味であるかのように語られることがありますけど、でも、たとえそれが当事者自身の経験に根ざしたものだったとしても、作品という形をとった時点で、当事者本人が自分の傷を直接語ることとは決定的に違うわけです。