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ロザリンド・クラウスの観念というか理論について整理していて、クラウスは写真をキャプションを必要するとかそういう意味で「異種混淆的だ」と言い(画像とテキストみたいなこと。『メディウムの再発明』参照)、それを指摘したのもベンヤミンだというんだけど、この「異種混淆性」が起きるのは本とか雑誌とか新聞とか、そういう場であって(このリストに展覧会を追加してもいい)、写真の本性でもなんでもない。だけど、クラウスは「写真がもつ本来的に異種混交的なこの構造は」とか言ってしまう。つまり写真の本質主義的に理解してしまう(グリーンバーグのことは本質主義だからって理由で批判したくせに)。 メディウムの異種混淆性が、写真というメディアの本質に帰属させられてしまうのは、彼女の理論のなかに「場」とか「環境」といった概念がないからで、メディウム間の差異という体系しかない。かつ、なぜ「環境」という概念が抑圧されているかと言えば、おそらくマクルーハンに対する否認ではないかと思われる。マクルーハンこそメディアの異種混淆性を強調した人だったが、メディアとは人は気付くことがない環境であると考えた。新聞とかテレビとかはこういう異種混淆性が発生する場・環境なので、メディウムスペシフィシティという概念はここでは相対化されてしまう。クラウスの観念のなかには、メディウムの異種混淆性が発生するような「場」がないもんだから、そのメディウムの特性として帰属させる必要がでてきてしまう。

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