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草間のインフィニティ・ネットはドナルド・ジャッドによって高く評価されたが、これもフランク・ステラのブラックペインティングが抽象表現主義の「表現」性というか、絵画のパフォーマンス性の批判として登場しているし、ラウシェンバーグの「消されたデ・クーニング」とかジャスパー・ジョーンズによる抽象表現主義のタッチのパロディがあり、ジャッドが草間を評価した文脈は文字通り「アンチ・アクション」的な文脈だとおもう。「アンチ・アクション」は、概念の内実としては中嶋泉の独創とも言えないとおもうし、作品を作家という主体と紐付けたがる傾向への批判として登場しているから、ジェンダーにたいしてニュートラルな概念として現れている。それは中嶋論考にとってもそうなのだが、女性作家に注目しすぎてしまって、理論的なフレームとしてはあまり機能していない。

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"また、女性のアーティストの作品だけに注目することによって、皮肉なことに「女性の美術」を別のやり方で固定してしまう危険性があることも理解している。たしかに、女性の作り手のうちに特定のアンフォルメル絵画やアクション・ペインティングに同調しない人物や、それとは異なるものへの追求を表明した人物は何人もみつけられる(男性美術家にもみられる)。そこで、目指したいのは、女性美術家の新しいカテゴリーや共通点を探すことではなく、彼女たちの作品がたがいに違うさま、差違を見ることであり、当時、そして現在も周縁化されている絵画作品から、戦後の日本の絵画を新しく見る可能性を提示することである。" (アンチ・アクション展の中嶋泉論考から)

いや、こうなるともうただの美術史であって、フェミニズム美術史ではない。それぞれの作家が傾向でくくることのできない異なることをやっているよね、だと、構造をまったく捉えていない。本来問題なのは「差違」の実態であって、たとえば中央画壇に近かった福島秀子と、松本から始めた草間彌生の「差違」とかは、画壇の権威にまったく捉われることのなかった草間の行為をよく説明するだろうし、福島がある意味では画壇とともに沈んでいった理由の説明にもなっている。もっといえば、人種や経済格差などの「差違」について、中嶋が論じるつもりがまったくないという態度があきらかなことは、個人的には残念に感じることだけど、自らの理論について考えつくしているように思えない。 福島と草間の差違は、「中央・地方」という構造的問題でもあるし、草間が日本の中央画壇を飛び越えて単身アメリカに乗り込んで、人種やジェンダーをある意味で抑圧するような表現をすることは、無関係とは思えないのだが、こうしたことについて中嶋論考ではあまり論じられない。