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tenjuu99(天重誠二)

@tenjuu99@hollo.tenjuu.net

これ今の美術批評がおもいっきり嵌まっている陥穽じゃないか。

"批評はふたつの極へひっぱられるように弛緩して、あるいは両極からぎゅうぎゅうに圧迫されるかたちでシュリンクして、ついには居場所を見うしなった。 ふたつの極というのはつぎのようなものだ。 一方に、エビデンス主義と成果主義と制度的思考とでがんじがらめになったアカデミックな論文への擬態がある。自己啓発と商品レビューに体現される統計学的な品質保証への異様なまでの信頼はその裏ヴァージョンにほかならない。 他方には、アイデンティティ・ポリティクスの視線がくまなく行きわたった世界で、ケアの社会的要請と当事者性への配慮とを原動とした言論の「私」化がある。論壇や文壇におけるエッセイ・ブームはそのわかりやすい一症例だ。唯一無二の当事者の体験がほとんどエビデンスのようにして前面に立つと見るなら、こちらも広義のエビデンス主義化として統合が可能になる。 註をずらずらと引きつれた学術論文まがいの批評や、ニッチな肩書を通行手形とした外部の専門家による知見が論壇誌と文芸誌を闊歩する。これは前者の帰結。たとえば、エッセイの過度の復権はそんな息苦しさからの逃避現象もしくは緩和策でもある。これが後者。以前ならおおざっぱに「批評」と銘打ったであろう文章が、いまは「××エッセイ」とディシプリン名を冠したエッセイと化す。 『現代日本の批評』以降急速に進行したのはこうした事態だった。どちらにも、いわゆる批評の「読者」は存在しない。"

「聞く批評」大澤聡 三宅香帆; 森脇透青; 松田樹; 大澤聡; 東浩紀; 植田将暉. いま批評は存在できるのか (p. 20). (Function). Kindle Edition.

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@tenjuu99@hollo.tenjuu.net · Reply to tenjuu99(天重誠二)'s post

一人語り的な形式が美術を語るモードにながいことなっているような気がしていて、批評の後退期にはまあそういうことになるんだろう。64年に美術出版社からでている「アンフォルメル以降」を読んでいて、作家も批評家も互いに挑発的で言論の場が成り立っていて、その空気感の違いに惹かれるものがある。三島対全共闘にもそういうところがある。